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エッセイ りんご箱みかん(#シロクマ文芸部)

 りんご箱で家具を作る、と言う趣旨の記事が初期の「暮らしの手帳」にあったそうだ。この雑誌の長年の読者なものだから、そうした記述を何度か見た。「自分の手で洋服を作る」という記事もある。暮らしを自分たちの力で作り出そうという雑誌のメッセージを感じる。

 母親が洋服を自分で作るタイプの人だった。若い頃、型紙つきの本を買った思い出を聞いたことがあるし、私の小さい頃の服も何着か縫ってくれた。だから「洋服を作る」というのは容易にイメージが湧くのだけれど、「りんご箱の家具」は想像の域を出ない。なにしろりんご箱を見たことがないのだ。みかん箱ならある。

 いや、よく考えるとあれは箱ではないかもしれない。みかんコンテナである。現にみんな「コンテナ」と呼んでいた。

 小さい頃住んでいた場所はみかんの産地で、親戚にも作っている人が数人おり、冬になると沢山みかんがもらえた。これの入れ物がみかんコンテナである。
 社会人に入ってから「コンテナ船」とか「コンテナ輸送」などという言葉を聞いたが、この「コンテナ」ではない。膝くらいの高さの箱で、側面が網状になって中が見える。蓋はない。上の部分と下の部分に凸凹があり、スタックできる。農作物の収穫現場でよく見るように思う。

 みかんをコンテナに入れるのは理にかなっている。通気性がいいからだ。ちゃんと管理しないとみかんはすぐカビる。少なくとも自分の住んでいた場所の気候では。貰い物のみかんは店に出せない規格外品なので、大きかったり小さかったり、傷がついていたりする。これらはちゃんと把握するべきである。特に傷物のみかんはカビの発生源になる。これを発見するにもコンテナの網目は都合がいい。とにかく通気性をよくし、下のみかんを痛ませず、ときどき上下を入れ替えたりヘタとお尻をチェックしたりして全て食べ切る。せっかくもらったんだもの。

 こたつの上には常にみかんが数個のっている。おやつではない。喉が渇いたら食べるのである。みかんは飲み物なのだ。なくなると寒い土間(古い家なのでコンクリート打ちっぱなしの倉庫みたいなところがあった)にみかんの補充に向かう。痛んでいるものから食べるのがセオリーである。これはカビとの戦いなのだ。

 コンテナいっぱいのみかんである。食べても食べてもある。(くれた側も同じような理由でくれている)ともすると、お正月前に追加でもらったりする。

 このため、私にとって「みかん箱(ほんとはみかんコンテナ)」という言葉は「お腹いっぱい」とつながっている。よく考えたらそんなに頑張って食べなくてもよかったのかもしれない。家族にもよく「みかん食べ過ぎでは?」と指摘されていた。戦っていたのは私ひとりだったのだ。

 家具が作れるりんご箱と多分同じように、みかんコンテナも大層丈夫な代物で、机にした記憶がある。「りんご箱を机に……」というのを漫画家や作家のエピソードなどでよく見聞きしたように思う。みかんコンテナは書き物には向かない。メッシュ状の凸凹があるからだ。じゃあ、なんの机にするかというと、畑の一服である。収穫用にたくさんあるから畑に持ち出してひっくりかえし、上でお昼を食べる。椅子にもした。ここでもやっぱり「お腹いっぱい」というイメージである。ながいこと座っているとお尻にメッシュ状の跡ができて痛い。

 気候的に、地元でりんごはとれない。私にとっては遠くからくるごちそうである。箱いっぱいのりんごなんてなんだか外国の映画のような品物だ。
 残念ながら、りんご箱はいまだに未観なのである。

エッセイ No.080

小牧幸助|小説・写真さんの #シロクマ文芸部 に参加しています。今週のお題は「「りんご箱」から始まる小説・詩歌・エッセイなどを自由に書く」です。