エッセイ 物語れ、呪いを解くために(映画「犬王」感想ほか)
映画「犬王」を観にいった。監督の湯浅政明さんのファンだからだ。いや、キャラクター原案の松本大洋さんのファンだからかもしれない。いやいや原作の古川日出男さんの…。
とにかく、観る、ということだけ前々から決まっていた。初日の初回。地元の映画館のネット予約開始時間早々にアクセスして、真ん中の、一番いい席をとった。
事前に原作を読破ずみだ。「平家物語 犬王の巻」。躍動感のあるいい小説だった。古川日出男さんは以前、「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」のなかの1冊として「平家物語」の現代語訳をされており(ちなみにこの本の装丁の帯も松本大洋さんの絵だ。中に同じ絵のポストカードがついていた。飾った。)、それが大変よかったので、絶対に面白いという確信があった。
「諸行無常」の代表格(というかそのもの)のイメージがある平家物語は、政治だとか、戦争だとか、いろいろなものを含んでいるが、文章自体は簡潔で潔い。古典作品全体に言えることだが、現代の小説のように、あんまりぐちゃぐちゃ描写したり、自論の展開をしたりしないのである。
「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」には中に訳者のインタビュー的なものが入っていて、どなたのだったのか失念したが、古事記や日本書紀の人物たちは考えない、という話をされていた。「(何かを恨んで)殺そう、と思った時にはもう殺している。」そうだ。
なんやかんや色々考えない、というのはもしかしたらそれだけ彼らが文明化されていない、ということなのかもしれないが、私はこの、あんまり考えない人たちが嫌いじゃないのだ。言い訳がましい現代人より好きまである。昔のひとたちは考えない。その代わりに、よく動く。走って、戦って、泣いたり笑ったり、びっくりするほどじたばたする。そして、古川さんの現代語訳は、平家物語の簡潔さや潔さ、そこからくる躍動感をよく伝えていると思う。
話を「犬王」に戻そう。いや、先に「平家物語 犬王の巻」の話(このエッセイ、めちゃくちゃ長くなっちゃったらどうしよう)だ。「犬王」自体は実在の能楽師だが、平家物語に「犬王の巻」という巻は存在しない。古川さんの空想だ。生まれつき異形として生まれた能楽師の息子犬王と、琵琶法師の少年との交流と友情が、「平家物語」の口語訳と同じ、いや、それ以上の躍動感で語られている。
原作も面白いということを確認しているんだから、もう、わっくわくである。初回入場者特典で、古川日出男さんの文章と松本大洋さんの絵の入った「犬王御伽草子」という折本をもらう。鼻血出そう。このまま帰っても悔いはない、と思う。
「夜は短し歩けよ乙女」「映像研には手を出すな!」「マインドゲーム」などの代表作がある湯浅政明監督の登場人物たちは、よく動く。しょっちゅう走っている。じたばたと足掻く。それが、もう、犬王の話にぴったりなのである。
犬王の異形は実は一種の呪いである。新作の平家を扱った能を舞うことで、彼の呪いはひとつひとつ解けていく。映画を見ていると、『新作の能をやるたびに、呪いが解ける』という印象を持つが、原作(実際には映画も原作に沿って描かれている)はちょっと違う。
この場面では、犬王が、稽古の時に自身の両耳にかかった呪いを解いている。原作では、彼の修練による美の完成が成ると(呪いのもととなった人物が奪った平家の話が奪還された扱いになり)対応した犬王の体の箇所の呪いが解ける。同時に、呪いに引き寄せられていた怨霊たちが成仏する。
「美の完成」自体は原作で大きく扱われているテーマだが、映画では少し影をひそめている。その代わり、犬王の演じる新作能の美しさそのものがダイナミックに描かれ、自分も犬王の新作能の観客になったかのような気分が味わえる。
そして、その分、「新作能を物語ることによって、物語られた怨霊たちが犬王の呪いを解いていく」ということが強く印象付けられる。
物語によって呪いを解く、ということに、自分は少し覚えがある。
私は毎日、小さなお話を書いている(この記事で初めて私を見た、というみなさん、私はショートショートを毎日書いているものです。)が、その中にはいくつか他人の実話が含まれている。もちろん、事実そのものではない。お話としてかなりの加工がされていて、実際の人物とも相当異なる。
その人が実際の人物かどうかは、読み手にはあまり関係がないので、普段明確にすることはないのだけれど、朗読活動をされている方にお話を提供する際に参考として、これが実際の人物をモデルとしたことをお話させていただいた。
そして、ライブ放送で、その方が朗読をされるのを聞いて、考えたのだ。物語によって呪いを解く、というのはこういうことなのかもしれないな、と。
この話は、語り手と「ジュリアン浦上」という方との対話でできている。
自分はあまり積極的に他人と交流する方ではないけれど、普段の生活で、それなりに誰かの話を聞く機会はある。
それで、ほんとうにごくたまに、話を聞いたその他人が「のっかって」しまうことがある。呪いというのは失礼だが、何か、体の端っこに、その話がとりついて、いつも頭の片隅をしめる、というような現象である。
すごく悲惨な出来事だとなりやすい。でも、すごくおめでたい出来事でもそうなる。あと、何かへんてこりんなこと。とにかく、自分の頭ではよく消化できないことが体に「のっかって」しまう。
この「ジュリアン浦上」さんは、実はこの話を書く前に、小さな童話として一度自分の話に登場してる。歌うねずみとしてである。
こうやって、お話にすると、のっかった何かが落ちる。記録する、というのとはちょっと違う。聞いた話を一度消化して、別の物語にしないと落ちはしない。現に、このお話ではあまり上手にいかなくて、もう一度書いたのが「ジュリアン浦上さん」だ。多分、自分がわからない、もしくは納得できない何かを物語によって理解したり、折り合いをつけたられたりすると、「落ちる」のだと思う。体にくっついた醜く重い蛹が、蝶になって飛んでいくような気持ちになる。
いや、もちろん。「私の物語は蝶々です!」などと宣言するつもりはない。
でも、せめて花であるといい。私にそれをのっけててくれた方たちに捧げる花だ。例えどんなちっぽけな花でも、彼らの幸福を祈るために。
出てきた本など
映画「犬王」
現在上演中です。興味のある方は是非どうぞ。犬王役のアヴちゃんの歌もすごいです。「鯨」が良いです。はー。
「平家物語 犬王の巻」古川日出男 河出書房新社
実在した能楽師「犬王」と平家の呪いによって盲目になった少年の物語。
書誌ひろってわかったんですが、文庫版、表紙が映画のになってるんですね。私はこれより前にかっていて、松本大洋さんの絵の表紙です。はー。どうしてそういうことするんですか。両方欲しくなっちゃうでしょ。やめてくださいよ。こっまちゃうんだから、まったく、もう。
「平家物語」古川日出男 訳 河出書房新社
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集の中の1冊として出された本です。平家物語は平安時代後期にかかっているので、映像化(アニメーションもでましたね)すると、雅さとか可憐さが強調されてしまいますが、本文はもっと無骨で無情な感じがします。源氏物語なんかと比べると圧倒的に男臭い。政治的ないやらしさもずいぶんでてきます。リンク画面にちょこっと見える、おじさんたちがほくそ笑んでいる絵、まさにそんな感じ。古典原文の意味がわからないから読む、ではなく、単純に面白いから読む、ができる名訳だと思います。