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エッセイ きつねの白銅貨

 新美南吉記念館に行って来ました。小説家、新美南吉の生家の近く建てられた記念館です。「ごんぎつね」が一番有名だと思います。私は確か小学生の頃、国語の教科書で読みました。

「おや」と兵十はびっくりしてごんに目を落としました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗ををくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、頷きました。
 兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

ハルキ文庫『新美南吉童話集』より「ごんぎつね」

 最後のシーンです。「ごん」と呼ばれるいたずら者のきつねがある日その一環で網にかかったうなぎを逃してしまいます。ところがそれは兵十という若者が老いた母親のためにとろうとしたうなぎでした。兵十の母親はうなぎを食べずに亡くなり、母親と二人暮らしだった兵十がひとりぼっちになってしまったのを見たごんは魚や栗などをこっそり兵十に届けるようになります。届け物が誰によるものかわからないままだった兵十は、ある日戸口でごんの姿を見てしまい、火縄銃で撃ってしまいます。
 実は私はこのお話が苦手でした。どうも、ごんがかわいそうすぎるというか、払った対価が大きすぎるような気がしたからです。そもそも、兵十のお母さんはうなぎを食べられないせいで亡くなったわけではありません。食べても多分亡くなったでしょう。そしてやっぱり兵十はひとりぼっちになるわけです。

 今の考えは少し違います。小さい頃はごんの届け物は「償い」だと思っていましたが、そもそもお詫びではななかったのでしょう。毎日いたずらをして、ひとりぼっちだったごんぎつねは、お母さんにうなぎを食べさせられず、きつねを確認せずに撃ってしまうような不器用な(そんな記述はないのだけれど)青年と友達になりたかったのかもしれません。自分がして欲しいことを他人にして、それで心の何かを埋めるような行為を大人になった自分もすることがあります。

 ところで、新美南吉記念館には「兵十」のモデルについての紹介がありました。地元のはりきり網の名手だった「江端兵重」さんです。
 小さい頃は気がつきませんでしたが、新美南吉のお話は、すっかり架空のもの、というよりかなり現実に即した世界観を持っています。例えば、「ごんぎつね」のこのあたり。

 しばらくすると兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それはふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくのなかへ、そのうなぎやきすを、ごみといっしょにぶちこみました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中へ入れました。

ハルキ文庫『新美南吉童話集』より「ごんぎつね」

 私は海辺の育ちなので、「なんでキスと鰻が同じ網にかかっているのか」がずっと気になっていました。キスは海の魚なのです。記念館の展示には、はりきり網は台風や大雨の時に仕掛けるものだという説明がありました。現地に来てみるとわかります。お話の舞台の近くは山あいですが、亀崎という港町が近くにあるんです。大雨で水かさが増えると川までやってくることがあったのかもしれません。あるいは、兵重さんが比較的河口で網を張っていた可能性もあるでしょう。
 大雨の時に使う、ということで私が小さい頃抱いていたもう一つの疑問も解消します。「兵十、粘って次の日もうなぎとれよ」そう思っていましたが、滅多にない天候のときにかけるはりきり網は、チャンスを逃したら数日は仕掛けられないんですね。

 新美南吉の童話で私がもうひとつ気にかかっていたことは、金銭にかかる問題です。新美南吉童話には結構な頻度でお金が出てきます。

「このお手々にちょうどいい手袋ください」
 すると帽子屋さんは、おやおやと思いました。狐の手です。狐の手が手袋をくれというのです。これはきっと木の葉で買いにきたんだなと思いました。そこで、
「先にお金をください。」といいました。小狐はすなおににぎってきた白銅貨を二つ帽子屋さんにわたしました。帽子屋さんはそれを人さし指のさきにのっけて、カチ合わせるてみると、チンチンとよい音がしましたので、これは木の葉じゃない、ほんとのお金だと思いましたので、棚から子ども用の毛糸の手袋を持たせてやりました。小狐は、お礼をいって、また、もときた道を帰りはじめました。

ハルキ文庫『新美南吉童話集』より「手袋を買いに」

 「手袋を買いに」も有名な童話ですね。手袋をくれるご主人は、しっかりお金が本物かどうかを確認し、お金をくれるなら狐にも手袋を売ってくれます。
 実は、逆もあります。人間が動物にお金を払うケースです。「げたに ばける」という。こだぬきが下駄に化けて、お侍に履かれてしまうという童話です。

 そのうちに さむらいは むらに はいって いきました。
 むらには げたやが ありました。
 さむらいは げたを かって、こどもたぬきの ばけた げたを おもてに だしてやり、おあしを ひとつ やって、
「や ごくろうだったのう」
 と いいました。
 こどもだぬきは おあしを もらったので さっきの くるしさも わすれて、よろこび いさんで かえって いきました。

ハルキ文庫『新美南吉童話集』より「げたに ばける」

 話の対象が下駄なので、「足」と「おあし」がかかっている可能性があるものの、「お礼、お金なんだ!」「こだぬき、それでいいんだ!」と、私は読んだときびっくりしました。

 童話とはいえ、お金が登場しても、確かにおかしくはありません。でも、あえて登場させない、という手法もありえます。最近見た例だと、魔女の宅急便です。アニメーション映画が有名ですが、原作は同タイトルの児童文学作品で、この、原作とアニメとの違いの一つが「主人公が宅急便をする対価にお金をもらう」ということだったりします。原作では、「おすそわけ」という、金銭以外の対価なんです。それはそれで成り立つのに、わざわざ改編するのは何らかの意図や、労働と対価に対する考えがあるからだと思います。そして、南吉童話でも、動物たちがお金を払うのは何か作者個人の「お金」というものに対する考えが(作為無作為によらず)あるんだろうなあ、と思うんです。

 ぐっと読んだことのある方が少なくなるかもしれませんが、新美南吉の書く人間たちのお話は、労働や金銭、商売に関するものが数作品あります。「牛をつないだ椿の木」は牛飼いの海蔵さんが、みんなが利用できる井戸を掘るために、仲間の牛飼いたちのような無駄遣いをやめ、お金を貯めるはなしです。「最後の胡弓弾き」「おじいさんのランプ」はいずれも主人公の商売が時代の流れに直面する話です。これらはいずれも、そうしたことを背景的にではなく、主人公の悩みの根幹の一つとして扱っています。よく同時代作家として引き合いに出される宮沢賢治にはない特徴だと思います。

 私個人として、新美南吉作品で一番好きなのは「花の木村と盗人たち」です。登場人物みんなちょっと間が抜けていて、お人よしのところもあり、そして自分の仕事が大好きだったりします。

 当の新美南吉はといえば、中学校卒業後、小学校の代用教員、東京土産品協会、尋常高等小学校の代用教員、飼料会社の住み込み、高等女学校の教諭と29歳の生涯で4回の転職をしています。初の就職が18歳なので、11年間で5種類、2年に1回くらい職を変えている計算になります。体が弱かったせいもあるかもしれない。生活のための仕事と、そこで発生する賃金は彼にとって山や川のように実在のもので、物語世界を作るために外したり隠したりできるほどの概念性の高いものではなかったのでしょう。それに大人になって読み直してみてわかったことですが、何吉作品の多くには実在の地名が出てきます。結構リアルなんです。

 記念館を出ると雨の降る前触れか、曇ってきていました。足早に帰ります。新美南吉は今の自分よりずっと早くに亡くなりました。29歳。結核でした。そのせいか手記などを見ると「若い人なんだな」と思ってしまうときがたまにあります。小さい頃は「昔のお兄さん」が書いた話だったのに。

 おいついて、おいこして、いつかもっと歳をとって訪れたときに「孫みたいだなあ」とか、思ったりするんだろうか。本の中の青年は、ずっと歳をとらずに止まったまま、仕事やお金や健康や、あれやこれやに悩んだままで、きっとまた頁を開く私を待っていてくれるんでしょう。

 ああそうだ。
 だから、だれも
 ひとりぼっちじゃ、ないね。

エッセイNo.86

登場した本など

新美南吉記念館

愛知県半田市の児童文学者、新美南吉の記念館です。近くにごんぎつねに出てくる彼岸花がたくさん咲く土手があります。秋は真っ赤な花に埋め尽くされるそうです。私が見に行ったときにはもう終わっていました。また見に行きたいですね。

新美南吉童話集 新美南吉/著 2006.11 角川春樹文庫

ハルキ文庫の新美南吉童話集です。青空文庫でも読めるんですが、紙の本の方が読みやすいんですよね。分厚すぎず、いかめしすぎもせず、程よい文庫だなあと思います。手に取りやすい形で古典作品が読めるの、素敵なことだと思います。


新美南吉童話集 千葉 俊二(編集) 1996.7 岩波書店

こちらは岩波文庫版。文庫とはいえ、ちょっといかめしくなります。「花の木村と盗人たち」はこっちの文庫にしかありません。両方のせておくれよう。私は好きなんだけどなあ。
 あと島でとれたクジラを扱った「島」という詩も好きです。浜に打ち上がったクジラが、肉を食べられて、ヒゲをとられて、油も、全部余すところなく使われていきます。実際、名古屋や半島近辺ではクジラがたまに打ち上がることがあるそうです。そうした、からりとした現実主義的なところがなんだかいいなと思うんですよ。(「島」はどちらの文庫にもないので、興味ある方は青空文庫などでみてくださいね)

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