恐怖と供養
子どもの頃から、夏は私にとって、一年のうちで最も強く、多くの「死者の存在」を意識させられる季節でした。
理由は多分、いろいろとあります。原爆の日、終戦の日、甲子園球場の黙祷、7月のお盆と8月のお盆、お祭りの踊り、お墓参り、怪談噺、心霊番組、百物語、稲川淳二さん――。
それから、私は北海道の生まれ育ちですが、俗にいう、お盆は海へ行かない、山へ行かないといった話も聞いた気がします。子どもの頃、塾の先生がよく聞かせてくれた怖い話にも、お盆の時期の海や山の話がありましたが、今考えてみると、これらはだいたい、ある種の「浮かばれない死者の霊魂」と「恐怖」とにかかわる語りです。
「恐怖」については、あまり考えたことがなかったのですが、以前、台湾で死者供養ついての調査をされているある先生から興味深いことをうかがいました。
台湾では「鬼月(8月)は“無祀の孤魂”にあふれている」という感覚が広く民衆に共有されており、在家の人々は自分の先祖供養を行うだけでなく、無祀の孤魂も救おうという精神を多分に持たれているとのこと。台湾では、そうした魂を「無縁仏」ではなく「好兄弟」と親しみを込めて呼ぶそうです。
ただ、その一方で、やはり「好兄弟がいるから海へ行ってはいけない」といった語りもなされているそうで、つまり「好兄弟」とは呼んでも、そこにはそれらへの「恐怖」がにじみ出ているわけです。
『春秋左氏伝』巻第21昭公7年に「鬼有所帰、乃不為厲」(鬼は帰する所有れば、乃ち厲を為さず)とあります。最後は「厲と為らず」かもしれませんが、「鬼」は死者の霊、「厲」は災難・祟り・疫病ですから、帰すべきところに帰せば悪いことは起こらない、逆にいえば、「しかるべき仕方で祀られない死者の霊魂は祟る」ということです。
中華圏では、このような観念の土壌へ仏教や道教が習合し、盂蘭盆会や道教の普渡といった死者供養が行われていったのであり、「好兄弟」と呼ぶその裏に「恐怖」があるというのは頷ける指摘です。
また、先生にお聞きしたところでは、台湾のある禅宗寺院では、在家の人々が集まり、まず『地蔵菩薩本願経』などを読んで先祖供養を行い、さらに「好兄弟」を供養するために「施餓鬼」を行うが、後者は夕刻に行うということです。
好兄弟のための儀礼を、夕刻という「昼」と「夜」の境目に行うという、これもまた興味深いお話で、「恐怖」がかかわっていそうです。
身近な人だけでなく「ありとあらゆる衆生」を供養するということでは、一昨年、山形で訪れた「モリ」と呼ばれる場所を思い出します。
海原のようにひらけた庄内平野には、小さな山や丘、木々がこんもりと茂った場所が小島のように点在しており、そのような場所が「モリ」や「モリノヤマ」だそうです。そして、モリは「亡利」「亡霊」であるとも――。
8月盆の送り火の後、先祖の霊は、他界へ戻る前に一時モリにとどまるといわれます。そして先祖だけでなく、有縁無縁のありとあらゆる霊もモリに集まるため、その時期、モリの中腹や上で「モリ供養」や「モリ詣り」と呼ばれる「施食」を行い、ありとあらゆる衆生を供養するそうです。
霊はその後、モリを出て、月山(標高1,984m)や庄内富士こと鳥海山(2,236m)などさらに高い山に向かうということです。モリの風習は、山中他界、つまり山の中腹は死者の霊が漂う世界であり、供養することで霊はさらに上へ上へとのぼって浄まっていくという、仏教弘通以前からある他界観が基盤にあるのかもしれません。
しかし今さらですが、「恐怖」のことについて、少しでもお話をうかがってくればよかったと後悔しています。
と、今この時期にいろいろと思い出して書いている私ですが、私自身は、お盆は身内の供養を行い、また、息子と過ごす大切な時間の一つとしてとらえているものの、同時期にお寺で行われる施食会(施餓鬼会・お施餓鬼)には、関心がありませんでした。
施食会とは、別に「恐怖」からではなく、ありとあらゆる存在に施食して供養し、その功徳(善行により得られる徳)を自分の先祖や近しい人々の霊に回向(振り向ける)する法要だとうかがいます。つまり、全員誰もが救済される仕組みと意義を持つ儀礼ということです。
このような「施食」。家庭・身内のことで手一杯ということもあるのですが、まるでかかわらないできたのも、なんだか残念に思えてきました。
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