「遊び」の本質は「操作」かもしれない。
うちの娘はいろんなことを自分でやりたがります。
買い物に出かけて帰宅すると「○○(←娘の一人称)が開けたい」と言ってドアを開ける。僕が家庭菜園に水をやっていると「あ〜○○がやりたかったのに…」と悔しがったりする。
大抵の場合それは、初体験ではないし、たいしておもしろいものでもありません。箒🧹で掃いたりゴミを捨てたり…日常のどこにでもある小さな一コマ。「遊び」ですらない。
昨日は庭でBBQをしていて、庭から直接リビングに戻る時に「○○が開けたい」と言って僕を制止し、自分で窓を開けて部屋に戻っていきました。
彼女にとって、部屋に戻ることの手前にある「窓を開ける」という行為が「自分でやりたい大事なもの」だったんです。
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そう片付ければそれはそうなんだと思います。僕がやってること、妻がやってることを、真似したい。それはその通りで、学習の基本だと思うのですが…
じゃ、なんで真似「したい」の?
ってとこに「楽しい」の本質が隠れてるような気がしました。
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子どもは今を楽しみたい生き物。
大人はつい「おだやかに過ごしてくれれば…」なんて考えてしまうけれど、子どもはそんなの求めてない。「ただおだやかな時間」は「楽しめたはずの時間」に対する機会損失でしかない。
子どもは常に「たのしそうなこと」をしたい。
で
僕が開けようとした窓を、僕を制してまで自分で開けたのだから、娘にとってはそこに何かがあったはずなんです。「やりたい」と思う何かが。
それは、ただ「大人のマネをしたい」というだけではないもののように感じてちょっと考えてみたのですが…
あれはきっと「自分で操作する」楽しさなんじゃないかな。
外界を自分で操作し、自分の意図したとおりに動く…その「操作」という世界との関わりが楽しいんじゃないかと。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。