melanfollia

日照時間が短くなった。風が冷たくなった。空気が緊張感をはらむようになった。以前よりも品のある自然の所作に心を奪われ、秋の陰りの気配を知った。
今日すれ違う澄んだ風は、堅牢な身体を空孔から吹き抜け、太陽の光線も届かないような、胸の奥底に張り詰めた琴線を振動させる。

四季のうちで秋は2番目に好き。1番に好きなのは冬。クリスマス、お正月、誕生日、豊満な催しを背負い込み、頼りなくたわむ枯れ枝の姿が浮かぶ。
しかしながら、やけに印象的で、心にしっとりと吸いつくような、なんとも形容しがたい特別な感情を思い起こさせる季節は、秋をおいてほかにない。

秋、いわゆる、酷暑が過ぎ去り、風が凛とした厳しさを帯びはじめ、大気中の水分量が減少し、湿度に曇らされた視界が再び透明度を取り戻すような時期においては、どうしようもなく浮き足立ち、いてもたってもいられなくなる。
何かをしたいわけではなくても、何かしないといけないようで、私を孤立させながら、ずっとつき従う何ものかの存在を感じる。
この存在こそが孤独なのだろうか。一人になるとたちまち現れるそれは、人にしつこくつき纏い、決してひとりでいることを許してくれないのだ。

私にとっての秋は緩衝。感傷した心を鑑賞でなぐさめ、過干渉ぎみの孤独(!)に胸騒ぎを覚え、いつの間にかひとりでとり残されているような寄る辺なさに気がつく、心もとない季節。
他方、照準から免れえない熱射や日差しに目眩を覚える夏と、喉を裂くような空気が大気を支配する冬、これらふたつのあまりにも強烈な気候、その間のわずかな緩衝地でもある。
この地点において、疲弊した心身を癒そうと期待するものの、来たる冬を万全に迎えいれる準備に着手しなければならない。そうした潜在的な強迫観念が、私を秋の焦燥へと駆り立たせる。そうして陥るメランコリア。
この感傷に惹きつけられるのは、被虐欲によるものなのだろうか。

ところで、熟れた果実が転がるような気怠さを響かせる「メランコリア(melancholia)」という言葉、甘ったるくも軽快な音節とは対照的に、悲観的な意味を内包している。原義は古代ギリシアにおける医学用語、人体を構成する体液のひとつ「黒胆汁」に遡る。

そもそも「黒胆汁」(ギリシア語のメライナmelainaないしメランmelan〈黒い〉とコレchole〈胆汁〉の合成語)は、うつ状態の人の排泄物の色から名づけられたらしい。

小池寿子『内臓の発見 西洋美術における身体とイメージ』、筑摩書房、2011年、p.174。

古代ギリシャの医療理論においては「体液病理説」、すなわち人体は「血液」「粘液」「黄胆汁」「黒胆汁」の4つの体液から成り立ち、体内におけるその配分によって個人の気質や体調が決定されるという考え方が主流であった。古代ギリシアから19世紀にいたるまで信じられてきたこの理論は、排泄物の観察を医術の基本に据え、療法としての瀉血を正当化した。
さらに、これらの体液には、含有量によってそれぞれ人の気性を左右する性質が以下のように規定されていたという。

血液の多い多血質の人は、はしゃぎ屋で、教養とは無縁。ワインと女性とあらゆる娯楽を愛する。ずうずうしいけれども気前もよく、社交的で上機嫌。肥満になりやすく、よく笑う傾向があり、浮かれ騒ぎと音楽が大好き。黄胆汁の多い胆汁質は、気性が激しく燃えるような情熱にあふれ、せっかちで野心も強い。偉ぶって気前もよいが、しばしば意地悪。いつも大食漢なのに、やつれて見える。心臓にもっとも負担がかかる。粘液質は、太ってがっちり。たっぷり栄養をとってぶらぶら怠けていれば満足で、感覚も鈍重、精神は死んだ様。粘液から逃れようと、常につばを吐く。ただし公正。黒胆汁質(憂鬱質)は、運動も休養も社交も拒み、勤勉だが、いかなるときも孤独で物思いに耽る。本質的に疑い深く、注意深く、倹約家。憂鬱そうな顔をした小心者

前掲書、p.182。

西洋医学発祥の地サレルノにて、11世紀以降に育まれた医療観を大成した『サレルノ養生訓』には、このような記録があったそう。少々長くなってしまったものの、当時の風俗が面白くて引用。
また、11世紀の医者、コンスタンティヌス・アフリカヌスは、アラビア論文のラテン語訳や、医学校での講義を行うなどして、メランコリー理論の発展に多大なる貢献を果たした。彼の定義によると、メランコリーとは、「何か存在しないものによって襲われると信じること」であり、「心を支配する猜疑であって、そこから恐怖と悲哀が生じる」病気なのだとか。

メランコリーは古代以来、基本的には黒胆汁の過剰による身体的病であったのだが、彼は「メランコリーの症候と害は心に及ぶ」とし、さらに心因や精神状態、倫理的態度などが黒単縦の色を濃く、ないしは薄くするとして、心身論としてのメランコリー理論の扉を大きく開けたのだった。コンスタンティヌスは、メランコリーとは、黒単縦の蒸気が脳へ上がって理性を混乱させ、「ありもしないものの想像」が生じた状態という。このとき心臓も「恐怖にさらされ」、不眠、痩せ、性的不能などの身体的障害が誘発される。

前掲書、pp.188-189。

それから、落伍者の要素とみされてきた陰鬱質は、ルネサンス以降、かつての否定的な意味に、天才的な創造力の証とする評価が加えられることになる。

憂鬱質の人間に対する考え方は、十五世紀の後半頃から大きく変って来た。直接的にはそれは、アリストテレスの「すべての優れた人間は、哲学者であれ、政治家であれ、あるいは詩や芸術における天才であれ、みな憂鬱質である」という一句があらためて注目されるようになったからで、その結果、それまではおよそ何の取柄もない怠け者と見られていた憂鬱質の人間が、少なくとも知的活動や芸術的創造には向いていると考えられるようになったのである。

高階秀爾『名画を見る眼』、岩波書店、1969年、p.57。

この価値観の反映は、西洋美術において確認することができる。例えば、憂鬱質を表す代表的な作品に、アルブレヒト・デューラーの銅版画《メランコリアⅠ》が挙げられる。この版画に描かれる陰鬱な顔をした図像は擬人化された憂鬱質であり、その周囲に散らばる秤、鉋、砂時計などの諸道具は芸術や学芸を表象している。
なお、この擬人像に見られるような頬に手を当てるポーズは、まさしくメランコリーを表す典型的な身振りとして、西洋の表象表現において繰り返し利用されてきた。
他にも、現代彫刻の父ロダンによる《考える人》、ニーチェの肖像、最近別の記事で取り上げたジョルジュ・デ・キリコの自画像(彼の自画像はニーチェのオマージュとされているが)にも同様の身振り(情念定型)は見受けられる。
ちなみに、憂鬱質に関する解釈は下記のような発展もたどる。

中世において土の元素および土星に支配された憂鬱質の人間像が、うずくまって膝に肘をついて沈思するイメージで記号化された系譜をたどり、それが、「幾何学」や「文法」などの「学芸」の擬人像に使用され(中略)ミケランジェロの「ロレンツォ公の像」では、瞑想的生を送ることによって精神の高貴さを獲得する精神的英雄の肯定的な象徴形式として完成された

若桑みどり『イメージの歴史』、筑摩書房、2012年、p.57。

現代において、いわゆる「芸術家気質」と揶揄られがちな性質。それと同等であろうものは、はるか古代より特別視されてきた。先述の『サレルノ養生訓』によると、それは懐疑心、警戒心、臆病さに起因しているらしい。
さらに、そうした性質の根源にあるのは感受性。なるほど。ただそこに在るだけの秋から、敏感にペーソスを嗅ぎ出す神経質な感性が、秋に憂いを纏わせているにすぎないということか。
依然として、人類の心性に継承されている悲観的な感性「melancholia」。それならば、その気質には人類史的な祖先の面影や記憶を見出すことができる。そのようにして何万年もの歴史に想いを馳せると、とたんに寂寥は霧消し、周囲がコスモポリタン的な温もりに包み込まれていく。
確かに、感受性は多くの苦痛の源泉となる。しかし、それと同時に、生活における幸福の増幅装置としても機能する。ある事物に、その数量以上の意味解釈を授けるのは感性の作用による。
秋において、私は、自身の心を搭載した部位の脆弱性を知る。ただしその一方、日常の営みから、幸福の瞬間的凝固なるものを探り当てる嗅覚が一際鋭くなっていることを実感するのである。この恩恵の効力は、多感がもたらすあらゆる不利益をも上回る。

ところで、秋桜(あきざくら)、コスモスの和名である。秋を象徴する花に、宇宙を意味する名詞「cosmos」と同じ読みが与えられているのは、何か意図があってのことなのだろうか。
「cosmos」の語源は、古代ギリシアにおいて調和を意味する「kosmos」。宇宙とは、秩序を前提とした体系である。確かに、コスモスの花弁や群生を見ていると、その均等のとれた広がりに、自然発生的な秩序が見てとれる。
さらに言うと、古代ギリシアでは「多様の統一」、すなわち、複数の部分を有しながらも全体としては調和が保たれている在り方が、あらゆる領域において重んじられていた。数量が多いほど統制は困難になるため、その調停にこそ作り手の力量が反映されるということらしい。
とは言え、四季の緩衝としてその調停を担う秋は、私においては情緒の均衡を歪ませる要因となる。

さて、奔放な想像力を放任していたら、連鎖反応的に生じる発想に歯止めが効かず、本題をはるか遠くに取り残してきたような気がする。これ以上、統制が及ばなくなる前に、擱筆。

いいなと思ったら応援しよう!