『求婚』【映画鑑賞記録#4】


クリスティナ・ゴダ監督作品『求婚』の視聴記録です。
舞台は1920年代のハンガリー(らしい)。マジャール語です。あまり耳馴染みのない言語。

背景美術の方はというと全体的にクラシカルでお上品。現実(現代)離れしています。戦後とは思えない平和な世界観。
また、ハンガリーといえばドナウの真珠と謳われるブダペスト。
この都市を舞台にした『桃色の店』、そのリメイクである『グッド・オールド・サマータイム』の2作品がとても好きです。朗らかで可愛らしいハリウッド映画。
以下、簡単なあらすじが続きます。


修道院で教師を務めるイダは、恋愛禁止の規則を破った生徒を庇って修道院から追放されます。
しかし、修道院を抜け出して実家に帰ることを切望していた彼女にとって、これは願ってもいない好機でした。
ただ、帰宅したイダを待ち受けていたのは、放蕩家の父親と、自分と同年代くらいの義母(になる予定の若い娘)。
実娘を邪険にする父親は金にならない娘は不要と豪語して、持参金を餌にイダの花婿探しを始めます。
やがて、イダは候補のうち”一番まとも”だった画家と一年後の離婚を前提とした結婚の誓いを立てます。
こうして、実利を目的とした、愛のない二人の結婚生活が始まります。


という風に、最後まで見るまでもなくオチが読めてしまうのがこの作品です。
王道も王道。最終的には二人の婚姻関係は恋愛結婚へと昇華します。よくある、それでいて人を惹きつけてやまないラブコメです。
20世紀後半にも、こうした都市の外観や持参金のシステムがまだ残されていたのかと面食らいました。フェミニズム要素というか、女性の在り方の変化も感じます。

案の定、誤解によるすれ違いであったり、序盤の反目だったり、そういう前振りも用意されています。
実はこの画家、蓋を開けてみたら爵位持ち(男爵、多分?)、妹想いの優しいお兄さん。やがて画業で成功を収める。
一方イダも、ロシア語に秀でピアノが堪能。聡明で勝ち気な女性。なんだかんだいってお似合いの二人。
結局は、内面が通じているから惹かれ合い、関係性が継続できる、そこに帰着しますね。人間関係。
というかこの展開、私は『高慢と偏見』を思い出さざるをえませんでした。ジェイン・オースティンが好きな人には間違いなく刺さります。私がそう。
どうして人は何番も煎じられたはずの王道に魅せられるのでしょうか。はあ。

結婚とは記号、名称でしかない。そんなもので人の心は拘束できない。
夫婦間でお互いの不干渉を約束したせいで、かえって思うように想いを告げることができなくなるという不自由なジレンマが生じます。もどかしい。

また、関係性が先立つことにやや違和感。
そばにいてほしいから結婚するのではなく、結婚したから貞節でいないといけない。法的には夫婦でありながら、本当の意味で結ばれているわけではない二人の関係。
夫婦はなにをもってして夫婦になるのでしょうか。夫婦の条件に愛情は不必要なのでしょうか。
すると、タイトルの『求婚』(原題『The Courtship』)。
本当の意味での求婚のタイミングは序盤ではない。ラストシーンにあるのだろうと私は思います。

なお、マジャール語では相槌に「igen」(イゲンと発音?)を用いるようです。この単語が、二人の間で何度も交わされるのですが、毎度異なるニュアンスを持っています。
ささいな相槌に関係性の変化が反映されていて面白いです。
例えば長年連れ添った老夫婦とか。信頼している者同士の公用語みたいなものですよね。相手を理解していれば、語句の力を借りずとも意思疎通がはかれる。それが理想。
失言をせずに好意的な言葉だけを発することができれば、人間関係の調和も容易になるのかもしれない。でも人はそんなに器用じゃないし。
その欠陥を補うのが、他者から向けられる理解、思い遣り、寛容ですね。そういうかたちのないもの、大事にしたいな。

さらに、ところどころ教訓を記したカットが挿入されます。「結婚は儀式である」とか、「悪魔が婚姻届を生んだ」とか、映像を俯瞰した地点からのコメントが挿入され、映像に章の区切りが与えられています。
この演出により、本作の焦点が「結婚」という包括的なテーマであるような印象を受ける。若い二人を結婚という方程式にあてがえた際のシミュレーションという感じの作品。
となると、人が王道に惹かれる理由。常道を逸さずに恋愛が成就することへの憧れ、人の関わり合いの中で生じるすれ違いが収集してより良いものとなることへの期待のなかにあるのかもしれません。

鑑賞日:2024/03/14

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