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下戸の憧れ、立ち飲み角打ち

吾輩は下戸である。
名前は授かって早、40数年。

あの作品は、その冒頭しか知らないが、早稲田の漱石記念館には行ったことがある。
併設のカフェで漱石ブレンドを飲み、コーヒー豆と手拭いを買った。
これが私における、漱石の全てである。
あと昔、お札を使っていた。

というわけで改めて、体質的にアルコールを受け付けず、全く持って酒の飲めない、ウイスキーボンボンもサヴァランも食べられない、真性の、下戸である。

仕事終わりに駅近くの商業ビルの喫煙所で1本、ないしは2本ほどタバコを吸うという喫煙習慣のライトスモーカーなのだが、そのフロアーに立飲み居酒屋があり、毎度、そこへ羨望の眼差しを向けている。

それならば飲める人を連れ立って行けば良いという話ではない。
背中を丸めながら肴をアテに飲(や)る、あの所作に憧れる。
あれがしたい。
ああいう雰囲気を醸し出して、それを背中越しに見られて、「あの人、雰囲気醸し出してるなー」とか思われたい。

そして、角打ちもしたい。角打ってみたい。
いつもの馴染みの人がいて、その場においてはお偉いさんとか役職とか立場は関係ない、釣りバカ日誌的な、あの感じ。

昔は「酒が飲めないなんて人生の半分損している」とか言われても、「人生の楽しみの半分が酒だなんて、しょうもない人生だ」と思っていたが、取り立てて趣味の無い今となっては、あながち外れていないようにも感じる。

酒ばっか飲んでダメな奴だけど、どこか放っとけない可愛い奴とか思われてみたかった。

それによる(犯罪ではない)過ちも犯してみたかった。

さらに、なんかズルいとも思ってしまう。
酒が飲める、ひいては強いというだけで、かっこいいとまでされる。ただの生まれ持った体質なのに。
でも、外見の良さとかも生まれ持ったもので、それで損得も生じるだろうし、こういうのは酒だけに限らないから、別に良いのか。
いや、良しとしたくない。

飲めないことがプラスに働くことは、まず無い。
勉強はしないよりはしておいた方がいいし、酒は飲めないよりは飲めた方がいい。
この言葉って、森高千里が初めて言ったぐらいの勢いがあるけど、絶対にそんなわけはないだろう。
もちろん勉強の方。

ひとつ期待しているのは、年をとってから飲めるようになるという現象。
これは実際に周囲でもちょちょこと聞いており、概ね40過ぎてから飲めるようになるとの話しである。
私は今年、44になる年だが、今のところその兆候は見られない。
でも、その「飲める、飲めない」という言葉は、非常にアバウトで、危ない。
特に、普通に酒が飲める人は、"弱い"ことを「飲めない」とする傾向があり、そういう人達と一緒になる際は、あらかじめ飲めないことを伝えても、これぐらいは大丈夫だろうと、最初に当たり前のようにビールを注文されてしまうこともあった。
そして、先の「40過ぎてから飲めるようになった」という人達も元来、そのビール一杯程度は飲めるタイプだったりする。

だから、私タイプの下戸が"40過ぎたら酒が飲めるようになる"のは、"30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい"みたいなことだろうか。

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