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恐竜は死んだのだ

福井県立恐竜博物館に行くことになった。それにあたって、恐竜がなぜ人を惹きつけるかということを考えてみた。それは結果的に「生と死のナンセンス」について考えることになった。

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恐竜が一般的にロマンを持たれるのは、まずそれが太古の存在だということがあるだろう。そしてそれが今は存在し得ないスケールの生物だということ。それは宇宙の遥か遠くに巨大な星があることのロマンと通ずる。時間的、空間的な距離と巨大性。

遠くてデカイ。そのことのロマン。

恐竜の巨大な化石を生で見ることは、宇宙の天体を間近に見るようなことで、化石は擬似的な星である。

恐竜と宇宙。「男子的」ロマンの代表格。

なんちゃんらサウルスとか、名前のなんとなくのかっこよさ。ちゃんと絶滅しているというのもポイントが高いんだと思う。かつていた存在という伝説感。

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ジュラシックパークは、ゾンビ映画の恐竜版。息絶えたはずの恐竜が蘇るというゾンビ化。そういう描かれ方をどう考えるか。

恐竜はみな絶滅した。つまり死者である。恐竜はかつていた存在として、死者として、人を惹きつけている。

ところで、しばしば死者は星になったと喩えられる。それは生きた存在と死者の断絶の絶対性の表現である。絶対に自分の手が届かない存在。それが恐竜であり星であり、死者である。恐竜は、過去の存在という意味で時間的な死者であり、星は物理的に到達できないという意味で空間的な死者、そして死者はただの死者。絶対的な死者だ。

死者はどうしようもなく死者である、という身も蓋もない断絶を正面から受け止めないために、恐竜や星の相対的な「死者性」が必要とされる。そこにはファンタジーを生み出す隙がある。恐竜なら時間の、星なら空間の「遠さ」をファンタジーで乗り越えればいいからだ。それが恐竜のゾンビ的な蘇りだったり、タイムスリップだったり、ロケットだったりする。

今を生きる自分と絶対的に断絶した存在。死者。死者とのその絶対に埋められない距離を埋め合わせる幻想として求められるファンタジーと、そのアクターとしての恐竜。だからそこにある「ロマン」とは死の回避へのロマンであり、それが「男子的」だとすれば、一般に男子は死を恐れているということになる。

なぜ人は多大なリスクを犯してまで月に行きたいのか。それは手の届かない存在があるということをできるだけ認めたくないからである。なぜ人は化石を組み立ててまで恐竜の生きた姿を再現したいのか。なぜジュラシックパークに興奮できるのか。それは同じ時代を生きられない存在があるということをできるだけ認めたくないからだ。それはつまり、この世に「死」があるということを認めたくないのだ。

死んだものは死んだのだ、という身も蓋もなさを、ある種の冷淡さをもって正面から受け止めることが難しいとしたら、それはなぜか。それは、ナンセンスな存在をただそれとして受け取ることの難しさに通ずるのだと思う。水を入れたグラスがあり、机があり、親があり、自分がいる。ただいる。「ただそうである」ということの根本的なナンセンスをそれとして受け入れることの難しさ。それは死した存在の死をそれとして受け止めることの難しさだ。

死を死として、その絶対的な断絶を受け止めることは、世界認識の「整体」というか、世界の根本にあるナンセンスを受け取る重要なレッスンだと思う。体をぼきぼき鳴らしてニュートラルにするような感じ。恐竜の化石から受け取るのも、恐竜は死んだのだという、その厳然たる「死」なのだと思う。

それがかつて生き、躍動していたのだというロマンから離れ、そのすべてがもれなく死に絶えたのだという身も蓋もない断絶を見つめること。それは転じて、自身のナンセンスな生の躍動を見つめることにつながる。死を死として、生を生として受け止めること。ただ一日があり、生活があり、仕事があり、会話があり、ということを、できるだけ「淡々と」「ただある」こととして受け止めようとすること。それはかえって、日常の細やかな振動を感知することを可能にする。

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