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身体の饒舌

山を走るときにしていることは「会話」なのだと思った。

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トレランということをしに逗子に行ったのだ。トレイルランニング。山道を走るのである。

ハイキングすらそんなにしたことがないので、それがどういう路面を走ることになるのかのイメージもあまり湧いていなかったが、果たしてなかなかの獣道を走ることになった。

アスファルトで整備された道とは違い、ゴツゴツとした山肌やその上に被さる落ち葉の柔らかさを足の裏で感じながら一歩一歩を踏みしめ、走った。

トレランは、自分のためにできていない道を走る経験だった。同じことを以前、別の場所で感じたことがある。

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4年ほど前、なんとなく石垣島に行き、その海岸を歩いていた。海岸は打ち上げられたサンゴ礁でできていて、砂浜とは違い、ゴツゴツと積み重なった白いサンゴ礁に足を取られてとても歩きにくかった。小さい頃によく遊んだボールプールのなかを歩いたときのような歩の進まなさだが、サンゴ礁は石同然に硬い。

俺は、これが「自然」を歩くということなのだとそのとき感じた。自然を歩くということは、人のためにできていない場所を歩くということだ。人のために作られた街の路面は歩きやすいが、人のためにできていない地面は歩きづらい。足をひねるし、足の裏も痛くなる。自然は歩きづらい。

人のためになどできていない、人以前にただあるがままにある自然。「歩けるもんなら歩いてみろ」とでも言いたげに、否、そんなことすら言わずに自然はそこにただあるのだった。

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逗子の山道を走っているときに、そのことが思い出された。この山道もまた「自然」であり、自分のためにできていない。そこで歩を進めるときの一歩一歩のストレスと心地よさ。

自分のためにできていない存在とは、つまるところなんなのか。すなわちそれは、「他者」である。サンゴ礁も山道も、俺とはなんの関係もない他者である。自分以外のもの、それが自然であり、他者である。

他人とコミュニケーションをとり、場をなんとか成立させる。社交する。そのときに必要なのは、言葉をあれこれと考え、会話することである。自分以外の「他なるもの」との交渉のために必要とされるのが言葉であり会話である。

だとしたら、山という他者を走るときに、自分の身体が山肌からのフィードバックを足裏から受け止め、自分の出方をあれこれ考え次の一歩としてリアクションすることもまた、身体的な「会話」に他ならない。

身体は山道に対して絶えず言葉を発している。言葉を紡ぎ、他なるものと会話する自身の身体を発見すること、それが平地のランニングにはないトレランの楽しみなのだと思う。

トレランは身体を饒舌にする。いや、普段から言葉を発している身体の存在を自覚させるという方が正確かもしれない。「明らかに話しにくい相手」とあえて向き合うというデモンストレーションをすることで、普段意識されることのない外部とコミュニケーションする身体の存在を浮き上がらせるようなこととして。

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他人と話すように、山を走る。他人と話すこととして、山を走る。ゴツゴツとして、平地のような「話しやすい」相手とは違う、手強そうな他人とうまく話す。なんとか走り切る。話し終える。こんな相手ともなんとか場を成立させた。コミュニケーションの達成としての喜びがそこにはある。

そっちがそうくるならこっちはこう出よう、という即興の、無言の身体的なやりとり。コミュニケーション。相手にリアクションする自分の身体を感じる心地よさ。自分の身体がリアクションできているという手応えの気持ちよさ。

それを魂の滋養として、僕たちはまた、日々やってくる未知の出来事やタスクという「他なるもの」と「うまくやる」ための英気を蓄えたり、あるいは「平地」を走るかのような日々のマンネリをリフレッシュする刺激とするのだろう。

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