脳腫瘍で光を失った息子と歩んだ15年の備忘録⑥2度目の手術、そして失っていくもの

手術当日、手術棟まで歩いて向かう息子に付き添うも、前回と違い、母親の入室は許されなかった。 今回もまた、オペ室まで同行できるものと思っていたのだが、自動扉の前で息子を見送らざるを得ない事になった。

その事実を知った息子の顔は不安で一杯になり、今にも泣き出しそうだ。 いってらっしゃい、待ってるからね、の声かけに一度振り返った息子の目からは涙が溢れていた。 意を決して自動扉の向こうへ足を踏み入れる様を見つめていた私は、ドアが閉まった途端泣き崩れた。
もう嫌だ。 胸が張り裂けそうだった。

手術自体は無事成功した。 1度目と同じ医師による執刀で、手術時間は、今回も十数時間に及んだ。 丁寧に癒着を剥がしながら、取りうる限りの腫瘍を取り除いてもらえた。 

しかし今回大きく違うのは、視力の大幅な低下だ。 元々、視神経膠腫には珍しい石灰化が見られた息子の腫瘍は、1度目の手術では、なんとか腫瘍の圧迫から解放された視神経が持ち堪え、0、2の視力が温存されたのだが、今回の急激に成長した腫瘍に因る神経圧迫は、息子の視神経にとどめを刺す事となった。

加えてホルモン分泌機能障害の悪化に因り、普通の食事を摂るだけで、みるみる太っていく。

前回の入院は1カ月半にも及んだが、今回は夏休みと言うこともあってか、小児脳外科病棟は満室状態で、入院待ちの子供も多く、抜糸2日後には追い出されるような形で退院となった。

ここからの毎日は、常に失明の恐怖との闘いとなる。

確かに中学部入学には間に合ったが、0、2程度残っていた右目の視力は0、05まで急激に低下し、授業を受けるのも大変な労力だ。 

私は息子の受講学科のそれぞれの教師と面会し、息子の状況を説明して、理解を求めた。 授業には常に拡大読書器を持ち込んだ。 出される宿題やプリントは息子が帰宅後すぐにコンビニに駆け込んで拡大コピー。 どんどん上がっていく拡大率。

どうしたって限界はある。 拡大読書器を使えば、一文字一文字は見えるが、文章全体を見渡せない為読むのに時間がかかる。 図形や地図に至っては、ほんの一部分しか見えない為、全体像が把握できない。 地図や図形が絡む学科では少しずつ成績も落ちて行く。 常に好成績を収めて来た息子は、大きな悲しみと絶望感に苛まれた。 努力してどうにかなるものではないし、私は側にいてやる事しかできない。 

私はまたしても検索魔と化し、夜な夜な視力回復、少なくとも温存できる方法はないものか探しまくった。 

有名な鍼灸師が、針治療で弱った視神経を回復させた、とのネットニュースを見ては、なかなか取れない予約をなんとか入れて受診させたり、大阪の、とある大学病院で、眼に直接電気刺激を与える事によって、視力を劇的に回復させる臨床を行っている教授の存在を知った時には、直接教授のチーム宛にメールを送り、参加を懇願したりもした。 

この臨床に関しては、息子の主治医に相談し、紹介状を書いてもらって数回参加した。 息子のようなケースには効果は期待薄であると告げられた上でのトライだったので、実際なんの変化が見られなくとも、諦めはついた。 なんでもいい、じっとしていられなかったのだ。

学校では次第に友人達からも距離を置かれ、陰湿なイジメにも苦しめられた。 一部の教師でさえ、ここはこの子のいる所ではない、とあからさまに嫌味を言い始めた。

そんな時、いつも味方について私達親子を支えてくれたのが以前登場したスクールナースだ。

彼女はこの学校の一番の古株で、影の権力者と言えるかも知れない。 誰一人彼女に逆らうことなどできなそうになかった。 学校長でさえ電話一本で呼びつけてしまえるのだから。

そんな彼女は、「あの子はここにいる誰よりも頑張っているわ。 あの子にはここにいる権利があるの。 例え完全に見えなくなっても、卒業までここで学ぶべきよ。」と言い続けてくれた。

本心を言えば、私はもう息子を盲学校に転校させたかった。 インターナショナルスクールは親を巻き込んだイベントがとても多い。 何かにつけ学校へ足を運ぶ事になるが、その度一人孤独に、壁に手を添わせながらゆっくり移動する息子を目の当たりにするのだ。 完全に無視するかつての友人達。 奇異の目を向ける他学年の生徒達。 息子が不憫で居た堪れなかった。

私もまた、かつてのママ友達からの好奇の眼差しや、いろいろ聞き出したくてウズウズしている様子に耐えられず、壁と一体化したかのように気配を消し、目が合いそうになるとすかさず逃げた。

こんな日々は精神を蝕む。 しかし運命を受け入れてひたすら頑張っている息子を前に、私が泣き言を言う訳にはいかない。

夜は一人ベッドに寄りかかり、眠れずにいると、そんな気はないのに勝手に涙が溢れてくる。 私は悲しみに暮れる体力さえ自分から奪い去る事にした。 思考力を停止させるために、毎日気が触れたように体を動かした。 ちょっとした隙間時間でもランニングをし、バイクを漕ぎ、徹底的に体力を使い果たす事で、夜は考え事をする間もなく、気絶したかのように眠りにつけるのだ。 食事が運動量に追いつかず、162cmの私が、気づけば41kgにまで体重が落ち、周囲からは怖いものを見るような目を向けられた。 これでいい。 これで放って置いてくれるだろう。

そしてこの頃、私の母が小脳出血で倒れた。 息子が学校にいる時間に母を見舞う毎日が始まった。 手術で一命は取り留めたが、脳血管性の認知症を発症し、入院していた公立病院から高度なリハビリを行う専門の病院へ転院させると、毎晩のように病院のスタッフから電話があり、「お母さんがどうしてもお話したがっています。 混乱しているようだから声を聞かせて安心させてあげてください。」と指示される。

「たくさん人が来て私を殴る蹴るするの。 助けて。 棺桶に入れられるの、怖い。」と泣き叫ぶ。 私は毎晩、またいつかかってくるか分からない電話の恐怖に怯え続けた。

この後母は退院し家に戻るが、母の奇行に耐えきれず、徒歩圏内にある、区の福祉センターで運営されていたデイサービスに母を通わせる事にした。 そうでもしなければ、家事も息子の世話もままならない。 母の奇行はエスカレートする一方で、私の精神は崩壊寸前だった。

そんな折、私の様子を見兼ねたデイサービスの職員から呼び出され、とある有料老人ホームを紹介された。 「息子さんとお母さんのダブルサポートは無理ですよ。 息子さんを守ってあげるべきです。」と。 

私は母をホームへ入所させた。 限界だった。

一方息子は弱音も吐かず、学校へ通い続けた。
完全に見えなくなる2011年3月7日まで。
それは10年生(高1)の最終学期在学中だった。

(2007年10月 電気刺激療法を受けに大阪へ 宿泊先のホテルにて)

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