脳腫瘍で光を失った息子と共に歩んだ15年の備忘録⑧3度目の手術、高校卒業と後遺症〜現在

6月の定期MRI検査後のある日、息子が趣味のウクレレを弾いていると、左手に違和感があると言う。 左手の指が思うように動かないと言うのだ。 弦を押さえる小指に力が入らない、と。

ただの疲れかもしれない、とこの時点では言っていた息子だが、その症状は日を追うごとに悪化し、パソコンや点字電子手帳などの軽いキーさえ打てなくなって来た。 

主治医にメールし状況を説明して、8月に再度MRI検査をすると、やはり嚢胞様の塊は益々存在感を増していて、自然消滅の兆候は見られない。 嚢胞による圧迫で左手が麻痺してきているのだろうとの事だった。

もう数ヶ月後には理療科への受験が控えている。 3度目の手術ともなれば、しかも前回からは5年以上も経過している事を考えれば、癒着も相当進んでいるだろうが、このまま麻痺が残ってしまえば理療の世界へ進む事は絶望的だ。 
まだ麻痺は始まったばかりなので、早急に取り除けば元に戻るかも知れない。
結局息子は3度目の手術に臨む事となった。

今回不安が残るのは、1度目、2度目の手術で執刀してもらった名医が、既に定年退職していたため、主治医自身が執刀する事になる点。

勿論、長年に渡って息子を診てくれている主治医には全幅の信頼を寄せているが、手術となるとやはり、ゴッドハンドと呼ばれた前執刀医にお願いしたかった。

何はともあれ時間がない。 ごちゃごちゃと考えている場合ではないのだ。 主治医は直ぐに手術室を押さえてくれた。 8月29日入院、9月2日手術というスケジュールで、その日はあっという間にやってきた。

手術が行われている間、元夫と交代で休憩しながら、待合室で看護師からの知らせを待った。
およそ10時間後、無事に終了したとの報告があり、胸を撫で下ろした。

麻酔から覚醒した息子とICUで面会すると、ひどい頭痛と喉の渇きを訴えた息子に、看護師は鎮痛剤の追加とたったひと口分の水をストローで与えた。 とても辛そうだ。 

こんな時にと思ったが、気になって仕方がなかった私は、「左手はどう? 動きそう?」と息子に問うた。 息子は点滴の針が刺さった左手をゆっくりと挙げ、麻痺してできなかったグーパーや、指を一本ずつ折っていく動作をやってのけた。

主治医からは、左手の麻痺を治すには、手術後しばらくはリハビリが必要だろうと言われていたのだが、嚢胞を取り除いた途端に元通りに動くとは嬉しい誤算だった。 息子も、心底安心したようだった。

手術後入院中の息子に、主治医から「小児脳外科病棟に入院している子供達の為にウクレレを弾いてあげないか?」との提案が。 息子の左手にとっても丁度良いリハビリになる、と言う。 早速家からウクレレを届けると、失敗したくないからと、病室で練習を始めた息子。

演奏当日、私は現場にはいなかったが、後日、主治医から聞いた話によると、主治医に連れられた息子は、重症の子供達の病室を巡り歩き、それぞれの部屋で演奏を繰り返したと言う。 

「子供達は皆すごく喜んで、拍手喝采でアンコールまでお願いしていたよ。 付き添いのお母さん達も涙を浮かべて感激してくれたんだよ。」と嬉しそうに報告してくれた。

何だか私も嬉しかった。 かつては息子自身が日々辛い思いをしていた同じ場所で、例え微力ではあっても、頑張っている子供達を少しでも楽しませることができたなら。

結局理学療法士によるリハビリはたった一度受けただけで退院の流れとなり、2か月後には息子の希望していた理療科の、小論文、ディベート、面接による推薦入試に無事合格でき、高等部卒業式も滞りなく終わった。

その後は何事もなく順調に大学生活を送っていたが、入学から半年が過ぎた頃に、3度目の手術の、息子のQOLを急激に低下させる後遺症が出始めた。 これまでのホルモン分泌機能不全だけでも、一生続く投薬治療という面倒が課されているのだが、今回は更に厄介な症状に悩まされる事になった。 

まずは代謝の著しい低下で、普通に食事をするだけで1か月に10kgずつ増量してしまったため、かわいそうだが炭水化物は1日1回昼食時だけにし、朝晩は野菜とタンパク質のみとする食事療法を独自に始めた。 それでも減量はできないが、現状維持はなんとかできる感じだ。

更に深刻なのが、無汗症。 一滴の汗もかけず体温調節ができないため、1年中熱中症の危険が付き纏う。 実際理療科在学中も高熱で意識障害を起こし入院もした。 

真冬でもエアコンの効いた室内などでは、体内に熱が篭って熱中症になってしまうので、この頃から常に大量の保冷剤をクーラーバッグに入れて持ち歩き、緊急時にはそれらを脇の下や大腿部に当てて熱を冷まさなくてはならない。

この先の人生、ずっと様々な障害と付き合っていかなければならないのか。 神も仏もあったもんじゃない、と本当に思う。

息子は理療科卒業後、あんまマッサージ師、鍼師、灸師の国家資格を取得した上で、更に選択肢を広げる為、更に2年を費やして理療科の教員免許も取得した。

そして現在、とある企業でヘルスキーパーとして働いている。 これ以上の再発に見舞われない事を祈りながら。 もう息子は一生分の不運を使い果たしたと思いたい。 脳腫瘍発症から息子と共に歩んだ15年、よくぞ生き延びて来たもんだと思う。 

最後に、息子には心からの敬意を表したい。
私なら同じ事ができただろうか?
いや絶対無理。

ただの一度も不貞腐れることなく、なぜ自分ばかりがこんな目に、と当たり散らすこともなく、不登校にも引き篭もりにもならず、いつもその時々でできる事を全力で取り組んできた。

実際、運命を恨んでも無い物ねだりをしても、何も変わらないし心が荒んでいくだけ。
だったら受け入れるしかないものね。

息子が私の息子であったお陰で、私もまた強くなれたと思う。 ありがとう。

(2014年3月、盲学校高等部卒業)

お読みくださった皆様へ。

拙い文章力で書き綴った、15年に渡る息子の闘病記録を、辛抱強く最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

「スキ」して下さった方、本当にありがとうございます、嬉しいものですね。 

現在は息子と二人、穏やかに過ごしております。

つい先日ツイッターも始めてみました。 まだ始めたばかりで殆ど呟いておりませんが、日々の些細な出来事をゆるく記していこうかな、と思っています。
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