脳腫瘍で光を失った息子と共に歩んだ15年の備忘録⑦盲学校での日々、そして再々発

携帯電話が鳴った瞬間、何故か「ああ、ついにこの日が来たんだ」と、応答する前に感じた。

2011年3月7日の午前中、スクールナースからの電話。

「彼の視力が限界なようなの。 トイレに篭って10分くらい泣いていたみたいなんだけど、医務室に来てからは落ち着いているから安心して。もう移動は不可能だから、とりあえず迎えに来れる?」

私は取るものもとり敢えず、家を飛び出した。
確かこの日の前日、3月の東京には珍しい大雪だったせいで、道にはかなりの雪が残っており、飛んで行きたい気持ちとは裏腹に、慎重に車を走らせなければならなかった事を記憶している。

医務室でナースと共に待っていた息子は冷静だった。 一人トイレで泣いていた息子が、必死で平静を装っているかと思うと、胸が押し潰されそうだった。

ナースは、高等部卒業まで通う意思があるなら、全力でサポートする、と言ってくれたが、息子自身も踏ん切りが付いたようで、ほんの少しでも視力がある内は最後まで学校に残りたいと思ってはいたが、もし完全に見えなくなった場合は、すっぱりと諦めて環境の整った盲学校に移る心積りはできていたようだ。

この後帰宅することなく、直接盲学校へと車で移動し、突然の訪問に恐縮しながらも事情を説明すると、校内を見学させてもらえることになった。

既に、この4月入学の為の試験 (とは言っても希望者は全員合格で、事実上はレベル分けの為の試験) は終わっていたため、後日一人で試験を受ける事になった。 

幼稚園からインターナショナルスクールに通っていた息子にとって、初めての日本の学校だが、小さい頃から、日本の公立の小、中、高校で教わる国語、算数(数学)だけは、近所の個別塾へ通わせ学ばせていた。 

日本人でありながら、母国語の新聞も読めない、と言うのがなんだか嫌だったのだ。 ママ友達からは、どうせ英語圏の大学に行く事になるのに、と不思議がられたが、そうしておいて本当に良かった、とこの時ほど強く感じた事はない。

学校を見学して驚いたのは、この当時の殆どの生徒は弱視で、息子のような全盲は、せいぜい一学年に2、3人であった事。 年によって比率のばらつきはあるのだろうが。

私はそれまで、盲学校といえば殆どの生徒が全盲だとばかり思っていた。 中には、息子の1度目の手術直後程度の視力があり、通おうと思えば普通校に通えそうな学生もそこそこいる。
そうか、やはり息子は、もうとっくに盲学校へ通うべき状態にあったのか。

救われたのは、想像していた以上に、生徒達が明るく、(騒がしく)、生き生きと学校生活を楽しんでいる、ということ。 休み時間中の生徒達の様子は、晴眼の子達のそれとなんら変わりがないようだった。

ここなら必要なサポートを当たり前のように受けられ、いじめに遭うこともなく、存在を恥じることもなく、1日に何十回もお礼とお詫びを言い続け、小さくなって生きる必要はないのだ、となんだか肩の荷が下りた気がした。

実際のところはそう簡単なことではなく、親子共々初めての日本の学校にとんでもないカルチャーチョックを受け、その慣習に馴染むまでかなり苦労することになったのだが。

とりあえずこの日からおよそ1週間後、クラス分けの試験を受け、通っていたインターナショナルスクールで受け取ったトランスクリプトや中学課程修了証明などを提出し、無事盲学校高等部普通科への入学を果たした。

先天性の視覚障害を持つ生徒や、小さい頃から盲学校で学んできた生徒達と違い、息子は白杖を使っての単独歩行や点字の知識が皆無なわけで、それらの習得は待ったなしの状況にある。

そこで、既存の「自立」という授業の他に、英語と古典の授業時間を自立授業に当て、徹底的に叩き込んでもらう事となった。

英語に関してはほぼ母国語に近い知識があるため、テストだけは全て受ける事で授業自体は免除となり、必須科目ではない古典は卒業時の単位には関わらないという事で全面的に免除された。

白杖での歩行は、実際に街中を歩きながら、マンツーマンで指導してもらえ、本当にありがたかった。 私自身も全く知識がなかった為、息子の歩行補助の仕方をしっかり学んだ。

1年生から2年生の途中までは、毎日学校まで送迎していたが、そろそろ一人通学を、まずは片道の往路のみ開始しようと言うことになった時には、朝早くから、何度も担当教員が自宅の最寄駅まで来てくれて、単独歩行確認テストを行なってくれた。 盲学校の手厚いサポート態勢に驚き感激した。

点字に関しては、最初の半年ほどは、読むのも書くのも時間がかかる為、試験の時など時間内に終わる筈もなく、それが余程悔しかったのか、寝る間も惜しんで勉強していた。
その甲斐あってか、1年生の終わりには、試験を時間内に終わらせられる程度には上達していた。

2年生では部活を楽しんだり、弁論大会の東京地区代表に選ばれたり、音楽のコンクールで独唱の部で優勝したり、と、まぁ辛い事はそれなりにあっても、以前のような引け目を感じる事なく、高校生活を楽しく送っていた。

2年生が終わる頃には、息子は自分の卒業後の進路を、国立大学附属特別支援学校の理療科と決めていた。

理療科というのは、あんまマッサージ、鍼、灸3つの国家資格を取得する為の学部で、視覚障害者にとっては、将来自立する為の数少ない選択肢の一つだ。 いわゆる「手に職」という保険が欲しいという。 うん、頑張れ、自分の人生、切り開いて行って欲しい。

しかしこの後、予想だにしなかった衝撃的な事が起きる。

この頃には息子も私も、2度目の手術から丸5年が経過していた為、これ以上の再発はないものと思っていて、(実際5年経過後の再発確率は急激に低下するわけで)、半年に1度になっていた定期MRI検査も、殆ど主治医との和やかな世間話をする場となっていたのだが...。 

3年生となった2013年6月の検査は違っていた。 画像を見ながらの主治医の深妙な面持ちに、私の心臓はばくばくし始めた。 まさか...。 

その、まさか、だった。
残存する僅かな腫瘍の横に、大きな嚢胞様のものができていると言う。

主治医は、「このタイプの嚢胞は自然消滅することも多いから、次回のMRIまで、しばらく様子を見てから判断しよう。」と言う。
私は不安を抱えたまま主治医に従うしかなかった。 嚢胞が消え去ってくれる事を祈りながら。

しかしこの後すぐに、息子の体に異変が起き始めるのだ。

(息子が欲しがって飼い始めたトイプードルのモカ)

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