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フィルター

―あなたの経験も、そこから生まれた意見も、

誰かと同じようで明らかに違っている。

それを声にしないなんて、「勿体無い」。


初冬の朝は4時、明けぬ間に、

自転車で閑静な道を走ると、

まるでひとけを感じない空気の中に、なんとも言えない幸せを感じていた。


この心地よさというのは、己のフィルターを通してしか感じられず、

例えば3分時間を戻してみて、自ら側溝に落ちてみたり、

SNSに自分の悪口を発見したりした場合の要素を、

もっと言ってしまえば自転車というのは頬に当たる風が心地よいのだと幼少の頃に覚えさせるのを怠った場合の要素までを、

全て(勿論、上澄みになればなるほど影響は減少していくが)混ぜ合わせてみた結果というのが、今感じる心地よさに影響しているというのであって、

仮に隣で誰かを引き連れていたとしても、決して共有し得ない結果を実感しているので、

無論これがミクロでもマクロでも、微生物からやGoogleMapの衛星写真からも、

到底窺い知れないはずのものといえる。


だけれども、例外として、仮に隣に居るとする誰かに「風が気持ちいいね」と声をかけた場合に、「そうだね」と返した場合に、言われれば確かにそうかもしれないと思い、実際に似たそれを感じるようになるということがある。

実際には感じないまでも、なるほどそういう感じもあるのか、と認識を新たにすることはままある。

結局のところ、本当の共有というのは全くの幻想ではあるのだけど、だからこそ、この世に僕の、あなたの完全な生き写しは1人たりとも居ない。


そういう意味では、例えば何か辛い経験をした時、死にたくなったとしても、それでも生き残ったフィルターになっていくというのは意味のあることで、その上あなたの声と言葉というものも、自分自身にとっては悲痛なノイズだったとしても、フィルターの持ち主次第で素晴らしい響きに捉えられたりするものであるから、

やはり人というのはどこかに孤独を残しておかなければいけない生き物で、構造上そういう風にもなっているという点で、それを悲観するのは大きな間違いだと言える。

むしろ、意見がすれ違うのを喜び、僕にしか、あなたにしか感じ得ないものを感じ、おのおのたったひとりにだけ用意された、たったひとつの場所に辿り着いた今という時を、どう転んでも愛さなければ、それは人間として履き違えているんだろうと思う。


もし迷った時は、幾層にも重ねてきた自分のフィルターに問いかけてみよう。この、複雑な感情の原因は、どういった正体なのかを。


自分を捌いて理解することが、近接する要素を知ることであって、時に真理のようなものであったりする。


これは単にこういう感情なのだ、と喜怒哀楽の分類で分かった気にならずに、改めて自分の幸福について、感覚や感情について、フィルターを遡って覗いてみよう。


それによって齎される驚きと発見を垣間見る度、これまでの自分を象ってきた要素のあまりのスケールに、敬意を示さずにはいられなくなるだろう。


Q.今の感情を引き起こした原因になった一番古いフィルタは?

是非コメントをお寄せください

(つれづれ171010)

読んでくれてうれしいです。