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人類皆平等の意味を履き違える人よ。それは本気で言っているのか?

人間の価値ってなんだろう。そもそも価値ってなんだろう。

人類皆平等というが、それは価値も同じということなのか?

いじめっこといじめられっこ。殺人鬼と求道者。どちらの命が優先されるべきかというのは、議論されてはいけないタブーなのだろうか。

結論から言って、人権の平等と人それぞれの潜在的価値は別個なものであって混同されるべきではない。

よって、人類皆平等といったところで、僕とあなたの価値はおそらく違うと主張することは矛盾しない。これは恐らくどちらも正しいことだ。

日頃から思っていることがある。この世には見えない序列というのがある。これは何も即座に、AがBより優れているからBよりAを優待すべきだという主張とはつながらない。この見えない序列は動的なものであって、恒久的な位置づけではない。つまり「人類皆平等」の原則によって、Bがどんなに期待外れと決めつけられようと、成長と学びの機会そのものを奪うことはあってはならない。全世界が君の敵になったとしても~というJPOPの歌詞のようにだ。

ではその序列とは、一体何を以って決まるのか?

それは、「果たされる使命」そのものの重みであると思っている。

様々な人生のバロメーターがある中で、最も考えなければならないことは、「結果的に私は、世の中にとってプラスだったのか、マイナスだったのか」ということだと思う。それが「果たされる使命」だ。

こういうと早速、そんなのは綺麗事だと否定されるかもしれない。偽善者ぶるなと。自分が良いと思えばそれはいい人生だったのだと、主張したい人もおられるだろう。

そこで僕が言いたいことは、決して「自分の人生を肯定すること」の価値は軽んじられるものではないということ。それでも尚、優先順位を付けるならば先の「世の中にとっての自分」が上であると主張したい。

その理屈は至って簡単だ。仮にあなたが周りを幸せにすることが出来たということは、「自分の人生をより良いと思える」人が増えたということ。

あなたが自分の人生を終えた時、いくら有意義だったと思っても、もしその分周りの人を不幸にしていたとしたら、これは人類全体が進歩したとはいえない。そうして皆が不幸になっていく世界の先で、再び相見える時が来たとして、あなたは今生のあなたほど幸せになることが難しくなってしまうのではないか。

「人にした施しは巡り巡って返ってくる」という。これは正にこの主張の趣旨にぴったりな原理原則だ。

あなたが嬉しければ私も嬉しい。あなたが涙すれば時にはもらい泣きしてしまうし、怒りは伝播し自分の身まで傷付いた錯覚を起こすことだってある。

周りが幸せなら自分も幸せだと互いに思えたとしたなら、これはもう上昇気流に乗ってプラスになっていく。足を引っ張りあった場合のことは言うまでもない。こうも言う。「周りはあなたの鏡だ」「類は友を呼ぶ」。

これらはもう当たり前過ぎて語る必要性を感じない程だが、それは僕がそうであるように僕の周りの人もそうなのであって、必要な人には必要な言葉なのかもしれない。でなければ詐欺師やら通り魔やらが生まれるわけはないのだから。

だから、もしあなたが不幸を感じているなら、意識ひとつで変わることもあるというこの話を信じてほしい。自分自身を幸せにすることが難しいなら、周囲の幸せを願ってみるのも一興。それも難しければ、遊牧民さながら、あなたが愛してみてもよいと思える相手を探す旅に出ることも一興。ひたすら無心で筋トレするという手もある。

なにはともあれ、そこからいよいよ「果たされる使命」を探求する冒険が始まるのだ。きっと僕や、あなたにしか出来ないことがあるはずだ。

どんな人生、「果たされる使命」が最も尊ばれるというのか。それは各々想像してみてほしい。僕にだって現時点での仮説があるだけだ。真理はきっとまだまだ深いところにあるのだろう。

読んでくれてうれしいです。