「普通」とは「良いこと」なのか——あるいは、ギフテッドに対する下方のピアプレッシャー

はじめに

 今回は「「普通」とは「良いこと」なのか」というテーマで書きたいと思います。

 きっかけは次のツイートを見かけたことです。

 このやりとりを読んで、私は非常に考えさせられます。

 「普通」って何でしょう。「普通」とは良いことなのでしょうか。なぜある人は「普通」でないことは「よくない」ことだと思うのでしょうか。

「普通」とは「良いこと」なのか

 ここで考えられる仮説は、次のようなものです。すなわち、ある人がいう「普通」とはその人にとっての「常識」であり、その人が自分の「常識」に反することを「よくない」ことだと感じるのは、その人が自分の「常識」から外れることを不快と感じるからではないでしょうか。もしそうだとするならば、その人は自分にとっての「快・不快」の感情がその人の「良い・悪い」の判断基準となっている、と言えなくもなさそうです。しかし、この場合の「良い・悪い」は、単に主観的な意味での「良い・悪い」であって、客観的な意味を持っていません。

 そもそも「常識」とは一体なんでしょう。「常識」というものは、多くの場合、その人がその時代の中で生きてきた共同体の中で形成された慣習に他ならないのではないでしょうか。そして自らの所属する共同体から別の共同体へ移動した時、かつての共同体のなかで形成された慣習が、別の共同体の中では通用しないことがあり得ます。この場合、かつての共同体の中で形成された慣習を「常識」として持つ人にとって「良いこと」は、別の共同体の中では「悪いこと」となることもあり得ます。このような違いを人は「文化の違い」と呼ぶかもしれません。例えば、キリスト教圏・イスラーム教圏・仏教圏で人はそれぞれ異なった「常識」つまり慣習を持ち、これに伴って「良い・悪い」と感じる「快・不快」の判断基準も変わってくることでしょう。

 「普通」とは、統計学で例えるなら、偏差値50であり、これは良くも悪くもありません。統計上、良い悪いの判定は、何を指標とするのかによって変わってきます。ある指標では優れているとみなされるものであっても、別の指標で見たら劣るかもしれません。ただ少なくとも一つ言えることは、本当の「良さ」すなわち卓越性(エクセレンス)は、つねに平均的個人にとっては「異端」でしかあり得ないのだということです。

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ギフテッドに対する下方のピアプレッシャー

 こうした本当の「良さ」を持っている「異端」の人をギフテッドと呼びます。ギフテッドについてはちょうど昨日の『クローズアップ現代+』(NHK、2019年8月28日(水)放送)で取り上げられていました。「ギフテッド」(Gifted)とは並外れた才能を"与えられたもの"の意であり、人口の上位2%に該当するIQ130を超える人々のことです。しかしながら、こうした卓越性を有するギフテッドが日本国内で生きづらい現状が問題としてフォーカスされ始めているのです。

 日本ではしばしば「普通はこうだ」「みんなこうしてる」「常識だ」などという言葉で、子どもの卓越性を引き下げ、平均的個人へと解消しようとする大人たちがいるように感じます。これは「ピアプレッシャー」と呼ばれるものですが、どちらかといえば下方のピアプレッシャーです。この下方のピアプレッシャーが、日本では学校や職場やあらゆる場所でものすごく多く感じます。実際に私もまた父親からこれらの言葉を幾度も浴びせられてつらい思いをしてきました。

 とにかく大人たちが思い違いをしてはならないと思うことは、「普通」とは決して「良いこと」でも「悪いこと」でもないということです。そして必要なことは、本当に「良いこと」(卓越性)に対して「普通」を押し付けることが、本当に「良いこと」を潰すことになってしまうおそれがあることに、大人たちがもっと自覚的になることです。

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