絵画という経験2
結婚式における共同体的なもの
絵画を読み解くのにも、その読み解いた内容を書き留めるのも同じぐらい体力がいる。前回「絵画という経験」で一度に扱えなかった作品がまだある。絵画の中には、その時代に特有の風俗習慣が描写されていることがある。
この絵には、タイトルの通り、村の結婚が描かれている。場所はオランダのどこかであろうか。この絵に描かれている結婚式は、決して個人的なものではなく、極めて共同体的なものである。村の全体が顔見知りだから、というのもあるのかもしれないが、結婚式の参加者は、その土地に深く根付いた人々によってとり行われたのではなかろうか。
翻って、現代の我々は、結婚式に親戚や友人や知人を呼ぶ際に、自分の住んでいる土地からではなく、様々な土地に住んでいる人々を、結婚式の参加者として呼んでいる。これは、交通の発展と都市の発展によって、人々が移動するようになったことによる影響であろうか。少なくとも現代の我々から見ると、同じ土地に住んでいるというだけで村全体で結婚式に参加してお祝いをしようという現象は、もはや日本中どこにも見られないように思われる。
檜垣立哉(1964-)がX(旧Twitter)でポスト(旧Tweet)しているように、結婚だけでなく葬儀もまた、人々が集まって行われる儀式であるが、葬儀のあり方もまた現代においては変化している。現代の葬儀はもはや共同体的なものではなく、極めて個人的なものへと解体してしまっている。一方で、ヤン・ステーンの「村の結婚」は、結婚式を描いたものではあるが、しかし同時におそらく葬儀もまた村全体で行われていたのではないか、ということまで我々に伝えるのに十分な役割を果たしている。
教養の化けの皮
絵画は風俗習慣を切り取るだけでなく、人間の素性を表沙汰にすることもある。
この絵では、ある男性が女性を覗き見しているシーンが描かれている。こういう滑稽なシーンを切り取っているのは、美術館に並んでいる絵画の中でも少し異質である。真ん中の女性を覗き込んでいる男性は、高貴をつらぬくはずのジェントルマンであるが、ここで描かれているのはジェントルマンらしからぬ下品な行為である。剥き出しの生に晒されていない、立派な洋服を纏ったジェントルマンだからこそ、教養の抑圧の下に隠されたものへの興味を示さずにはおかない。ジェントルマンといえども、否、むしろジェントルマンだからこそ、教養形成の陰で倒錯に陥ってしまうという側面に、ロンギは着目したのではないだろうか。
画像系生成AIにも匹敵する奇妙な発想
国立西洋美術館の常設展では「西洋版画を視る―リトグラフ:石版からひろがるイメージ」という特集がされている。そこにはオノレ・ドーミエの風刺画が何点か展示されているのだが、驚いたことにその奇妙な作品群は、まるで昨今の画像系生成AIが生み出したような、現実にあり得ないような奇妙な発想を持っていた。
顔の中に複数の顔が描かれている。こうした常識はずれの描写は、画像系生成AIが現実にはあり得ない生物を描いてしまうのと同じような感触がする。
この絵も風刺画であり、プレスの中に人(展示の解説だとルイ・ナポレオンだったか)がいる。こういう奇妙な発想は画像系生成AIに得意とするところだが、これが人間ドーミエ自身のアイデアであることに驚かざるを得ない。
画像系生成AIにとって風刺画は可能なのだろうか。風刺画は政治的コンテキストを踏まえた高度な技術であって、見た人の政治的な意見をも左右する影響力を持つと考えられる。ゆくゆくはそのような水準が画像系生成AIにも要求されるであろう。
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