絵画という経験
はじめに
先日、国立西洋美術館に行ったことは「写本という経験」ですでに述べた。その際に企画展だけでなく常設展も覗いてみたのだが、そこでこれまた面白い体験をした。なので今回は常設展での経験について書きたい。
なぜ左奥に背景が描かれているのか
いくつかの絵画を眺めた際に気になったことがある。それは、なぜ左奥に背景が描かれているのか、ということである。
この絵画の主役は、一見すると女性であるように見える。概ねそのような理解で問題ないであろう。だが、敢えて、女性ではない部分に着眼点を置いてみよう。女性の左側の窓から外の景色が見える。草木と建物と山が見える。遠くの風景が左側に描かれているのは偶然であろうか。私は偶然ではないと考えている。なぜか。もう一つの絵をご覧いただきたい。
プリーゴの絵よりもおよそ30年後に描かれたティントレットの絵画でも、遠くの背景が人物の左側に置かれている。二つの絵から推察するに、およそ16世紀の絵画においては〈主役として描かれた人物よりも左側に遠くの背景を描写すること〉が中心的セオリーだったのではなかろうか。だからこうした構成は偶然ではない。同様の物証をもう一つ挙げておこう。
この絵画自体は、聖書物語に馴染み深い内容であるが、細部の描写がどれほど入念な時代考証に耐えられるものであるのかは私にはわからない。少なくとも、左奥の背景として描かれる川や橋や建物のあり方は、古きそれらのイメージを我々に伝えるものである。
アンチセオリー
ここまで見たように〈主役として描かれた人物よりも左側に遠くの背景を描写すること〉が中心的なセオリーであったとすれば、以下の絵はそれに反発したものである、と理解することができる。
その手に剣を持ち首を持つということが内容的に反道徳的であると同時に、絵画の構成自体もアンチセオリーであることがわかる。つまり中心的な人物の左側ではなく、敢えて右側に、遠くの背景が描かれているのである。もちろんルカス・クラーナハ(父)が、当時の中心的なセオリーを知らなかったわけがない。その証拠として、彼の10年以上前の作品では、ちゃんと人物の左側に遠くの背景を描きこんでいるのである。
「ゲッセマネの祈り」もかなり入念に計算された構成だと思われるが、まだセオリー通りの構成である。「ホロフェルネスの首を持つユディト」の構成は敢えて禁を破った感がある。
AIの判定を狂わせる
以下の写真は、私のスマートフォン(Google Pixel7a)のポートレートモードで撮影したものであるが、どういうわけか変なところがボケてしまっている。
この絵画がピカソの作品であることは一瞥して分かる。だが、それ以上に興味深いのは、スマホのカメラ機能のAI判定が狂ってしまったことだ。絵画それ自体は平面に描かれているにもかかわらず、AIはピカソの絵の中に特殊な遠近感覚を見出している。ここから明らかになるのは、人間がこの絵から抽象化して人間のかたちとして見いだす範囲と、AIが人間のかたちと判定した範囲との間には、明確なずれがあるということだ。
おわりに
私は絵画の専門家ではないので、個々の絵の伝統的な説明というのはできない。だが、本を読むように絵画を読むことはできる。絵画を私なりの読み方で読解することができる。これは生成AIには可能であろうか。生成AIが絵画をどのように読み解くのかというのは、それ自体は興味深いことである。
機械やAIといったものは、我々の機能を代替するものであるが、我々の経験を代替するものではない。ここには何か重要なものが隠されているような気がする。代替されえない経験の蓄積こそは、その個体にとって唯一無二であって、他者に同一化され得ないからである。
もちろん我々人類は自身の経験を伝記や物語などの形式で伝承してきた。だから経験はけっして伝達不可能ものではない。しかしながら、スティーブ・ジョブズの伝記を読んだからと言って、読者がスティーブ・ジョブズになるわけではない。イエス伝は信者をキリスト教徒にするが、イエス・キリストその人にするわけではない。
機械や生成AIの利点とその限界は機能における代替可能性にある。だからその先には、代替不可能な経験の方がより高次の目的として存在する。〈人間とは美術する動物である〉という命題は、経験の代替不可能性をそのうちに含んでいる。
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