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なぜ私たちはフィクションの世界にのめり込めるのか

はじめに

 2021年12月29日(水)に、川崎109シネマズで『呪術廻戦0』(IMAXレーザー版)を観てきた。都内の映画館は混み合っていて良い席のチケットが取れないほどだったので、そこから人気の様子が窺えた。実際、大人から子供まで見れる仕上がりになっていたし、ネタバレになるから言えないが、途中、涙も出た。

 さて、2021年にアニメとして放映された『週間少年ジャンプ』(集英社)の作品に、『鬼滅の刃』と『シャーマンキング』と『呪術廻戦』があるが、これらの作品には何か共通点がないだろうか。これらの共通点として真っ先に思い浮かぶのが、「霊」とか「鬼」とか、日本の平安時代の古典に描かれているようなモチーフが登場する点である。『鬼滅の刃』は鬼殺隊が鬼を退治し、『シャーマンキング』はシャーマンが己の巫力と持ち霊をもって戦い、『呪術廻戦』は呪術高専の人々が呪霊を祓うべく戦っている。鬼や妖怪の漫画の古典といえば水木しげるの作品が挙げられ、少年漫画の古典としては冨樫義博『幽遊白書』がある。だが、『鬼滅の刃』『シャーマンキング』『呪術廻戦』はこれらの古典とはまた作風が異なっている。

 『シャーマンキング』と『鬼滅の刃』はすでに『週間少年ジャンプ』誌上での連載を終えている。特に二回目のアニメ化である『シャーマンキング』はテンポ良く話が進んでいるが、最近は一話当たりのシナリオの進みが早過ぎて、コミックス一冊分以上も一気に話が進んでいる。『鬼滅の刃』は昔の『ドラゴンボールZ』ほどではないにせよ、すでに「無限列車編」を劇場版で見ている私にとっては(最初の第一話を除いて)きわめて冗長に映った。集英社にとって『鬼滅の刃』と『呪術廻戦』はドル箱であるから、これら二つの作品をリニアモーターのように交互に市場に繰り出すことによって収益を最大化している。

なぜ私たちはフィクションの世界にのめり込めるのか

 ところで「鬼」だとか「呪霊」だとか、日常生活では合理的にはあり得ない存在を、これらのフィクションの世界にのめり込み、そのようなものとして受け止められるのは一体なぜだろうか。「鬼」や「呪霊」に真面目に取り合っていたのは平安時代のような一千年も前の時代のことである。

 もし「鬼」や「呪霊」といった存在を真面目に受け取っていたら、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』はフィクションではなくノンフィクションとして人々に受け入れられることになる。むしろこれらの作品がフィクションだとわかっているからこそ、人々はその世界の中にのめり込むことができるのではないか。

 実は「鬼」や「呪霊」といった存在は、私たちの日常生活の中に潜む何かしらのメタファーであり、「鬼」や「呪霊」が実在しないかどうかは実は視聴者にとってどうでも良いことなのかもしれない。私たちが『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』を見て感動するのは、そこに感情を揺さぶるような人間ドラマが描かれているからこそである。『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨のうちに私たちが看取するのはまさしく「鬼」のような上司の姿であり、その反面、煉獄杏寿郎のうちに私たちが看取するのは偉大なる先輩・リーダー像である。『呪術廻戦』はある意味で学園モノ・青春モノであり、少年少女の成長を描いている。私たちの日常で戦う対象は、勉強であったりスポーツであったり仕事であったりするので、そうした対象が「鬼」や「呪霊」として描かれていると考えられる。フィクションのうちに日常と同じようなものを見出すから私たちはフィクションにのめり込むことができるのではないだろうか。

「言語論的転回」以後の、もう一つの仮説

 思考をもう一歩推し進めよう。「なぜ私たちはフィクションの世界にのめり込めるのか」という問いの背後で暗黙の了解とされているのは、〈フィクション〉と〈ノンフィクション〉の区別、あるいは〈フィクション〉と〈現実〉との区別ではないだろうか。しかし、私たちが〈現実〉だと思っているものは〈フィクション〉と一体どのような点で異なっているのだろうか。〈現実〉も実は〈フィクション〉なのではないか。というのは、〈現実〉とは私たち人間が理解した概念で構成されており、その概念は人間の作り出した言語によって構成されており、したがって〈現実〉もまた人間の作りものに還元されるからである。このことは〈歴史〉においても同様である。

 言語を介さずして、私たちは何も考えることはできない。つまり、社会制度や価値観といった枠をはめられる前に、私たちの認識自体が言語により支配されている。
 この世界は、言語という記号により意味を与えられた相対的なものなのだ。このため、私たちが実体だと思っているものは「表象」に他ならず、その意味では歴史家が明らかにしているのは「事実」ではない。すべては「言説」ないし「テクスト」であって、まさに「テクストの外部などというものはない」(ジャック・デリダ)のだ。
 認識論のこうした考え方は、ポストモダン思想における「言語論的転回」と呼ばれている。こう考えると、歴史の本とは、ランケが言ったように実際にそうであったように書かれているどころか、単なる物語に過ぎない。歴史は過去に関する「表象」であり、小説と歴史書の違いはなくなってしまう。
(武井彩佳『歴史修正主義』中央公論新社、2021年、5〜6頁)

〈ノンフィクション〉であれ〈フィクション〉であれ、その世界を構成しているのは言語である。加えて、アニメーションはカラフルで動きのあるイラストと声、そして音楽で物語を演出する。それは人間の視覚や聴覚を通じて大脳新皮質を刺激するのだが、その際に脳内で処理されている働きは、現実の人間関係において見聞きする際のそれと全く変わらないのではないか。そして、だからこそ私たちは〈フィクション〉にのめり込めるのではなかろうか。否、むしろ〈フィクション〉こそが、私たち人間の〈現実〉そのものなのである。

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