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ヴィーコ『新しい学』試論


はじめに

 本稿では,ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668–1744)の主著である『新しい学』第三版(Scienza Nuova, 1744)の読解を試みる.
 ヴィーコの『新しい学』には以下の三つの版がある.

 『新しい学』初版(1725)には口絵はなかった.口絵が追加されたのは,『新しい学』第二版(1730)以降である.

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(ヴィーコ『新しい学』第二版,1730年,口絵)
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(ヴィーコ『新しい学』第三版,1744年,口絵)

『新しい学』第二版(1730)と第三版(1744)の口絵では,イラストが若干変わっている.第三版の口絵では,作成者が壺に「D. M. 」の文字を入れ忘れてしまっていることが指摘されている(上村1998).
 ヴィーコの『新しい学』はこの口絵の説明から始まる.この図版を念頭に置いて読むことが,『新しい学』の「理念」を理解する一助となる.

テーバイのケベスの『図版(ピナクス)』

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テーバイのケベス道徳的なことがらにかんして作成したのと同じような国家制度〔政治〕的なことがらにかんする図版をわたしたちもここに提示するので見てもらいたい.この図版は,読者にとって,〈この著作の観念〉を,これを読むまえに自分のうちに宿しておき,また読んでしまったのちにも,想像力の援助を得て,よりたやすく想い起こすのに役立つはずである.

(Vico1744: 1,上村訳(上)17頁)

この「テーバイのケベス」について,上村忠男(1941-)は次のように説明している.

テーバイのケベスは紀元前四世紀の哲学者で,ピュタゴラス派のピロラオスの弟子.プラトンの対話篇『パイドン』に,おなじくテーバイの出身でピロラオスの弟子であったシミアスとともに,ソクラテスの主要な対話者として登場するといえば,あるいは思いあたる人も少なくないかもしれない.『クリトン』(45B)によれば,シミアスといっしょに,ソクラテスの脱獄のための金を用意してアテナイにやってきたとされている.
 ヴィーコが言及しているのは,このテーバイのケベスのものであるとされてきた(ただし,今日では別人のものであると判定されている)著作『ピナクス』のことである.そこでは,クロノスの神殿の門前にかかげられていたという,人間の生涯を寓意的に表現した図板(ピナクス)をめぐって,ソクラテスふうの対話が展開されている.「テーバイのケベスが道徳上のことがらにかんしておこなったのとおなじように」というのは,この『ピナクス』における手法のことをいっているのである.そして,このことについては,当時の読者ならば,おそらく即座に察しがついたものとおもわれる.

(上村1998:64)

プラトンの『パイドン』に登場するテーバイのケベスのことかと思えば、そうではないという.しかも「『ピナクス』における手法」は「当時の読者ならば,おそらく即座に察しがついたものとおもわれる」と書いてあるが,筆者にはよくわからない.この情報をもとに,もう少し調べてみよう.Wikipediaの英語版"Cebes"の項目には次のように書かれている.

The Tabula has been widely translated both into European languages and into Arabic (the latter version published with the Greek text and Latin translation by Claudius Salmasius in 1640). It has often been printed together with the Enchiridion of Epictetus.
『図版』は,ヨーロッパの諸言語およびアラビア語へと幅広く翻訳され(後者〔アラビア語訳〕は1640年にクラウディウス・サルマシウスによるラテン語訳とギリシャ語テクストと一緒に出版されている),エピクテトスの『要録』と一緒に印刷されることもあった.

クラウディウス・サルマシウス(Claudius Salmasius, 1588–1652)が1640年に出版したケベス『ピナクス』がおそらくこれである.エピクテトスの著作と一緒に出版されたもの(1670年)はこれである.

自然界を超越したものとしての「形而上学」

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地球儀,すなわち,自然の世界の上に立っている,頭に翼を生やした女性は、形而上学である.これが形而上学という名辞の意味であるからである.見ている眼を内部にもった光り輝く三角形は、摂理の顔をした神である.

(Vico1744: 1,上村訳(上)17頁)

どうして「地球儀,すなわち,自然の世界の上に立っている,頭に翼を生やした女性」が「形而上学」ということになるのだろうか.「形而上学 Metafisica」について小坂国継(1943-)は次のように述べている.

周知のように,アリストテレスの『形而上学』は最初から確固とした意図や構想をもって,順序正しく体系的に叙述されたものではなく,異なった時期に,異なったテーマについて書かれた論文や講義草稿類を,後に全集の編者が集めて一本としたものである.紀元前50〜60年頃と推測されているから,アリストテレスの没後,300年近くが経過している.『形而上学』(metaphysica)という題名も,アリストテレス自身がつけたものではなく,「自然学的諸著作の後に」(τὰ μετὰ τὰ φυσικά)配置するという,(全集の編者)アンドロニコス(Andronikos ho Rhodios)の残したメモが,そのまま後の学問名になったことは周知の事柄である.「後に」という意味のギリシア語μετὰが,同時の「超えて」という意味も有しているところから,「自然学を超えた学問」として「形而上学」という名称が定着した。超自然学ともいうべき性格の者である.内容的にはアリストテレスのいう「第一哲学」(πρώτη Φιλοσοφία)に符合している.
 ちなみに「形而上学」という日本語は『易経』(繋辞上篇)にある「形而上者謂之道,形而下者謂之器」(形より上の者,之を道と謂い,形より下の者,之を器と謂う)に由来している.命名者は井上哲次郎で,彼の編纂した『哲学字彙』(明治14年)に見える.

(小坂2015:4–5)

小坂によれば,「形而上学」は「自然学的諸著作の後に τὰ μετὰ τὰ φυσικά」という編者のメモに由来する."μετὰ"は「後に」と「超えて」の両方を意味するので,「形而上学」は「自然学を超えた学問」という意味になる.
 したがって,上の口絵の「形而上学」が地球儀の上に乗っているのは,まさしく「形而上学」が地球儀という自然界を「超えて μετὰ」いることを表現したものである*1.また「形而上学」が「頭に翼を生やした女性」として描かれているのは,頭に翼を生やしていることによってそれが自然界の姿を超越していることを示しているといえるだろう.上村はこの口絵を図像学,イコノグラフィーの観点から考察している*2.ここで「形而上学」が「頭に翼を生やした女性」として描かれているのは,尋常らしからぬその姿が「記憶術」と関わるからであろう.というのも,桑木野幸司(1975-)によれば,「記憶術」においては極端で奇妙な力強いイメージが大きな効果をもたらすとされるからである.

イメージには,情報を圧縮する効果のほかに,心に強くうったえかけて内容を忘れにくくする力もある.だからこそ,「賦活イメージ(imagines agentes)」と名づけられた記憶用のメンタル画像は,可能な限りヴィヴィッドで,極端なものが推奨された.美しいのであれ,醜いのであれ,とにかく通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで,心を激しく揺さぶり、記憶に深く刻み付けてゆくのである.

(桑木野2018:81)

「形而上学」を体現した「頭に翼を生やした女性」はまさに「通常の規範を大きく逸脱した」姿形であり,このような描写によって上の口絵は「著作の観念」を読者に容易に想起させることを意図したものであるといえるだろう.

哲学者たちと形而上学の位置付けの違い

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この摂理の顔を介して,〈形而上学は〉,これまで哲学者たちが神を観照するさいに媒介にしてきた自然界のことどもの秩序を越えて,〈恍惚とした面持ちで神を観照している〉.これは,形而上学は,この著作においては,これまでよりもさらに上方へと高まりあがって,神のうちに〔本来の〕形而上学の世界である人間の知性たちの世界を観照し,神の摂理の存在を国家制度〔政治〕的世界または諸国民の世界である人間の精神〔魂〕たちの世界において論証しようとするからである.

(Vico1744: 1–2,上村訳(上)17–18頁)

口絵には「哲学者たち」が描かれていない.これはつまり「哲学者たち」のあり方と「形而上学」のあり方を混同しないように注意が必要だということであろう.ここでは「哲学者たち」の代わりに「形而上学」が擬人化されている.
 「哲学者たち」は「自然界のことどもの秩序」を媒介として,神を観照してきた.これは,自然科学を考察の対象としていたかつての「哲学者」,まだ現代のように専門領野に限定されていなかったかつての「哲学者」の像に合致する.
 一方で「形而上学」はそのような哲学者のあり方を乗り越えた仕方で神を観照する.形而上学は「摂理の顔をした神」を直接的に観照しているので,「恍惚とした面持ち」となっている.
 哲学者に対する形而上学の優位性は,神の摂理と人間世界とを交互に行き来できる点にある.「形而上学は……神のうちに〔本来の〕形而上学の世界である人間の知性たちの世界を観照し,神の摂理の存在を国家制度的世界または諸国民の世界である人間の精神たちの世界において論証しようとする」.神に内在する人間世界と人間世界に内在する神の両方の側面の見識を持てるのが,形而上学の位置付けなのである.
 他方で,これまで哲学者たちは自然界に内在する神の側面しか捉えようとしてこなかった.それゆえに,ヴィーコは形而上学と比較した場合にみられる哲学者たちの不十分さを次のように指摘する.

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だからこそ,〈地球儀〉,すなわち,形而下または自然の世界は,〈ただ一部分においてのみ,祭壇に支えられているのである〉.なぜなら,哲学者たちはこれまでずっと神の摂理自然界の秩序のみをつうじて観照してきたので,ただたんにそれの一部分をしか論証してこなかったのであった.

(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)

口絵では哲学者たち自身は描かれていないものの,地球儀が一部分だけ乗っかっている祭壇は,哲学者たちがこれまで論証してきたもの,すなわち「新しい学」に対する旧い既存の科学の蓄積を表現しているのかもしれない.

神を観照する仕方について

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すなわち,神こそは自然を自由かつ絶対的に支配している知性であるというわけで——それというのも,神は,その永遠の計らいによって,自然的なかたちでわたしたちに存在をあたえてきたのであり,また自然的なかたちでわたしたちを保存しているからである——,そのように認識された神に,人間たちによって崇拝が犠牲やその他の神聖な儀式とともに捧げられてきたさいに媒介となった部分がそれである.そして,その自然本性がつぎのような主要な特性,すなわち,社会生活を営もうとするという特性をもっている,人間たちによりいっそう固有の部分をつうじては,かれらは神を観照することをなんらしてこなかったのである.

(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)

ここで二つの論点が考えられる.ひとつが,神と自然との関係はどうなっているのかということであり,もうひとつは,神と人間との関係はどうなっているかということである.
 ここで「神こそは自然を自由かつ絶対的に支配している知性である」と言われている.「神」は自然に対して支配的な立場にある.
 この「知性」は,人間のうちに内在しているものなのか,それとも人間にとって超越的な存在なのか.「神は,その永遠の計らいによって,自然的なかたちでわたしたちに存在をあたえてきたのであり,また自然的なかたちでわたしたちを保存している」のであり,その上「そのように認識された神に,人間たちによって崇拝が犠牲やその他の神聖な儀式とともに捧げられてきた」のであるから,神に対して人間は従属的な立場にある.
 これまで神については自然界という媒介を通じて考察されてきたが,人間の自然本性が有しているような社会生活あるいは政治社会の側面を通じては考察されてこなかった.だから,政治社会の側面を通じて神を観照していくのだとヴィーコは述べている.

アリストテレスの政治学とヴィーコの国家神学

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しかし,この部分にたいしても神は摂理を立てて〔先を見通して〕,人間にかんすることどもをつぎのように順序づけ配置してきたのであった.すなわち,原罪によって完全無欠な正義から堕落した人間たちは,〔正義とは〕ほとんどいつも異なったことばかりを,またしばしば正反対のことさえをもおこなおうと意図する.そして,利益を得るのに役立ちさえするなら,野獣同前の孤独な生活を送るのも厭わない.しかも,このかれらの〔正義とは〕異なり,また正反対の道そのものを通って,当の利益自体によって,人間らしく,正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく.こうして,社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう,人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである.これが,人間は自然本性からして国家的な存在である,ということの真の意味であり,かくては自然のうちに法〔権利〕が存在するということ,このことがこの著作においては論証されるだろう.神の摂理のこのような機序こそは,この学が主として推理しようとすることがらのひとつである.したがって,この学は,この面からすれば,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学*3であることになる.

(Vico1744: 2,上村訳(上)18–19頁)

ヴィーコの"cibile"は上村忠男訳では「国家(制度)的」と訳されており,また"Teologia Civile"は「国家神学」と訳されている.しかし「国家」といっても注意しなければならないのは,ここで訳語にあてられている「国家」の意味は,マキアヴェッリ以後の近代的な「国家 Stato」としてのそれではなく,むしろアリストテレスが『政治学』(Πολιτικά)で述べているような古典古代の「ポリス Πόλις」に由来する「政治的共同体」=〈市民社会〉としてのそれであり,これをラテン語では「キウィタス civitas」という.このことはヴィーコが上の引用で述べている箇所(「当の利益自体によって,人間らしく,正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく.こうして,社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう,人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである.これが,人間は自然本性からして国家的な存在である,ということの真の意味であり…」)は,「人間はその本性においてポリス的動物である ὁ ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον」というアリストテレスの有名な思想を示している*4.
 ここでヴィーコは人間のあり方を自然状態と社会状態の二つに区別している.自然状態に生きる人間は,「利益 utilità を得るのに役立ちさえするなら,野獣同前の孤独な生活を送るのも厭わない」.つまりこの場合,人間は利己的に振舞うので,他人との関わり合いを避け孤独に生きることになる.(もっとも野獣が孤独に生きているかどうか,野獣といえども野獣としての社会を形成するのではないか,という疑問が筆者にはあるが.)社会状態に生きる人間はどうかというと,逆に「当の利益自体によって,人間らしく,正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく」.この場合の「利益」は個人の私的な自己利益の追求ではない.「正義 giustizia」という公的な利益の追求が「社会 società」を形成することになる.ヴィーコ的にはこうした社会の背後には「神の摂理」が働いている.人間社会のあり方を通じて「神の摂理」を探究する学のことを,ヴィーコは「国家神学 Teologia Civile」と呼んでいる.

ヘラクレスとネメアの獅子

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地球儀を取り巻いている黄道帯の中で,獅子と処女の二宮だけが,他の宮以上に堂々と,あるいはいわゆる遠近法にしたがって,姿をきわだたせている.これは,この学がその諸原理のうちでまずもってはヘラクレスを観照するということを表示しようとしている.古代の異教諸国民はいずれもがそれぞれ自分たちを創建したヘラクレスなる存在について語っているのが見いだされるからである.それも,かれをその最大の功業,すなわち,口から炎を吐き出してネメアの森に火を点じた獅子を殺したという功業の面から観照するということを表示しようとしているのであって,この獅子の皮で飾られてヘラクレスは星辰にまで高めあげられたのであった.ここ〔本書〕では,その獅子は地上を覆っていた古代の大森林であったことが見いだされるのであり,この大森林にヘラクレスは火を発生させて,これを耕地に変えたわけで,かれは戦争の英雄たち以前に出現していたにちがいない政治の英雄たちを象徴する〔詩的〕記号であったことが見いだされるのである.

(Vico1744: 2–3,上村訳(上)19–20頁)

ヴィーコ『新しい学』扉絵の地球儀には「獅子と処女」の姿が描かれている.「これは,この学がその諸原理のうちでまずもってはヘラクレスを観照するということを表示しようとしている」.「獅子と処女」がヘラクレスの観照を意味しているとは一体どういうことなのか.
 ヘラクレス*5は十二の功業を成し遂げたという伝説があり*6,その功業の一つが「ネメアの獅子退治」として知られている.ネメアの獅子(Νεμέος λέων)とは,「ネメアの森 Selva Nemea」に生息していた人食いライオンである.

エウリュステウスは彼に命がけの冒険をつぎつぎにさせました.それが世にいわゆる『ヘラクレスの十二の仕事』であります.
 まず一番はネメアの獅子との戦いでありました.ネメアの谷は一頭の恐ろしい獅子のために荒らされていました.エウリュステウスはヘラクレスにその怪物の毛皮を持って来いと命じました.ヘラクレスは棍棒や矢で向ってもだめだとわかると,手づかみにして獅子を締め殺しました.そうして死んだ獅子を肩にかついで帰って来ました.エルリュステウスはその有りさまを見て,ヘラクレスの人並み優れた力を空恐ろしく思いました.

(ブルフィンチ1978:196)

「しし座」のモデルはヘラクレスが倒したこのネメアの獅子であり,このことをヴィーコは「獅子を殺したという功業の面から観照するということを表示しようとしているのであって,この獅子の皮で飾られてヘラクレスは星辰にまで高めあげられた」と述べている.
 ヴィーコのテクストでひとつ気になるのは〈火炎〉の位置づけである.ネメアの獅子を倒すことで「ヘラクレス Ercole」は「英雄 Eroi」として表象された(両者の音の近さはヴィーコ的に関係あるかもしれない).「ここでは,その獅子は地上を覆っていた古代の大森林であったことが見いだされるのであり,この大森林にヘラクレスは火 fuoco を発生させて,これを耕地に a coltura 変えたわけで,かれは戦争の英雄たち以前に出現していたにちがいない政治の英雄たちを象徴する〔詩的〕記号であったことが見いだされる」.ネメアの「獅子」や「古代の大森林」は未開の野蛮な自然状態のことを表していて,これをヘラクレスが「火」でもって「耕地に変えた」ということは,文明化された社会状態への移行を意味しているのではないだろうか.

「オリンピアード」と「時間の起源」

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また,それはさらには時間の起源を提示しようともしている.時間は,ギリシア人——わたしたちは異教の古代についてわたしたちがもっている知識のすべてをギリシア人から得ているのである——のもとでは,オリュンピア競技にともなうオリュンピア紀から始まっているが,このオリュンピア競技の創始者がヘラクレスであったと言い伝えられている.だから,オリュンピア競技はネメアの人々によって始められたもので,殺した獅子を持ち帰ったヘラクレスの勝利を祝うために導入されたものであったにちがいないのである.こうして,ギリシア人の時間は,かれらのあいだで田野の耕作が始まった時点から始まったのであった.

(Vico1744: 3,上村訳(上)20頁)

「時間」を理解する鍵は,「オリュンピア競技にともなうオリュンピア紀」という部分にある.「オリュンピア紀」あるいはオリンピアードとは,次のオリンピックが開催されるまでの4年周期の単位を意味する.オリュンピア競技のように,ある一定期間を経て繰り返されることによって時間という単位が生まれた.ここにヴィーコは「時間の起源」を見出す.このパラグラフの内容は,本書「詩的年代学」で次のように触れられている.

こうしてまたヘラクレスは,ギリシア人(異教の古代にかんしてわたしたちがもっている知識のすべてをわたしたちはギリシア人から得ているのである)のもとにおける名高い時代区分の方法であったオリュンピア競技の創始者である,とわたしたちに語り伝えられてきたのだった.なぜなら,かれは森に火をあたえて,それを種播き用の土地に変えた.そして,この土地から得られる収穫の回数でもって,当初年数が数えられていたからである.またこの競技は,ヘラクレスが口から炎を吐き出すネメアの獅子に勝利したことを祝うために,ネメア人によって開始されたのにちがいない.

(Vico1744,上村訳(下)181–182頁)

ヴィーコは「オリュンピア競技の創始者がヘラクレスであった」と述べているが,これは果たして本当であろうか.古代ギリシアのオリュンピア競技は,ギリシアの四大競技大祭の一つであったとされる.オリュンピアで4年に1度開催されたオリュンピア大祭の他に,ネメアで2年に1度開催されたネメア大祭,イストモスで2年に1度開催されたイストモス大祭,デルポイで4年に1度開催されたピューティア大祭などがあった.Wikipediaの"Nemean Games"(英語)の項目には"With the Isthmian Games, the Nemean Games were held both the year before and the year after the Ancient Olympic Games and the Pythian Games in the third year of the Olympiad cycle. Like the Olympic Games, they were held in honour of Zeus. They were said to have been founded by Heracles after he defeated the Nemean Lion"という記述があり,確かにヴィーコが述べているように「オリュンピア競技はネメアの人々によって始められたもので,殺した獅子を持ち帰ったヘラクレスの勝利を祝うために導入されたものであった」という伝説が残っているようである.

農耕神サトゥルヌス

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つぎに,麦穂の冠をかぶって天文学者たちのところに行く,というように詩人たちによって描かれている処女は,詩人たちがかれらの世界の最初の時代であったとはっきり語っている黄金の時代からギリシア史が始まったことを意味している.この黄金の時代には,何世紀にもわたって,歳年は小麦の収穫によって数えられていたのであって,小麦こそは世界で最初の黄金であったことが見いだされるのである.そしてこのギリシア人の黄金の時代にローマ人にとってのサトゥルヌスの時代が同一段階のものとして対応しているのであって,サトゥルヌスは,〈サトゥス〉satus,すなわち,種が播かれた土地ということから,こう呼ばれたのであった.

(Vico1744: 3,上村訳(上)20–21頁)

ここで「黄金の時代」という言葉が登場するが,これはギリシア神話のいわゆる「黄金時代」(χρύσεον γένος)を指している.
 ヘシオドス『仕事の日々』には五時代説話が叙述されており,彼は黄金時代、白銀時代、青銅時代、英雄の時代、鉄の時代という五つの時代区分を示している.

これらすべてのことからつぎの重大な系が出てくる.すなわち,金,銀,銅,鉄というあの世界の四時代区分は頽廃した時代の詩人たちが作りあげたものだということである.なぜなら,最初のギリシア人のもとで黄金の時代にその名をあたえているのは,麦というこの詩的な黄金であったからである.

(Vico1744,上村訳(上)483頁)

この歴史観においては,人類は神々とともに平和に暮らしていたが,徐々に争うようになり,人類は堕落へと進んでいったとみなされる.
 ここで登場するサトゥルヌス(Saturnus)とはローマ神話に登場する農耕神のことである.サトゥルヌスは初めて人間に農耕を教え,太古のイタリアに黄金時代を築いたとされる.

「観念の一様性」と「共通感覚」

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また,この黄金の時代には神々は地上で英雄たちと交わっていた,とも詩人たちは忠実にわたしたちに伝えている.そう,忠実にである.というのも,やがて論証されるように,単純素朴で粗野な異教世界の最初の人間たちは,もろもろの恐るべき迷信でいっぱいになったこのうえなくたくましい想像力の強力な惑わしにあって,自分たちが真実地上で神々を見ているものと信じこんでいたからである.また,それがやがて,オリエント人のもとでも,エジプト人のもとでも,ギリシア人のもとでも,ローマ人のもとでも,互いに相手のことをなにひとつ知らないでいたにもかかわらず,〔かれらが人間として抱いていた〕観念の一様性によって,等しく,地上から,神々は惑星に、英雄たちは恒星にまで高めあげられていったことも,ここ〔本書〕でのちに見いだされるとおりである.このようにして,サトゥルヌスはギリシア人にとってのクロノス(Κρόνος)であるが,クロノス(Χρόνος)は同じくギリシア人にとっては時間(tempo)をも意味していて,このサトゥルヌスないしはクロノスから,年代学,すなわち時間の学説に,いまひとつ別の新たな原理があたえられることになるのである.

(Vico1744: 3–4,上村訳(上)21–22頁)

神々というのは今となっては地上の存在ではなく天界の存在と考えられているが,古代の人々にとっては神々は地上にいたのも同然と思い込まれていたので,神々は英雄と交わっていたという逸話が生まれた.ただしこれは古代人の想像力の賜物であり迷妄に過ぎなかったとヴィーコは指摘している.その迷妄が解かれる過程のためか,人類の推理・認識能力が発達したためか,次第に神々と英雄の位置付けは天界の星々へと移動していくという.
 ここで「観念の一様性」という言葉が登場する.地域の異なる国民(ここでは例えばオリエント人,エジプト人,ギリシア人,ローマ人など,地球上で見れば割と近い地域に属している国民と言えるかもしれない)が互いに知らない間柄であるにもかかわらず,共通の観念を抱いていたことをヴィーコは「観念の一様性」と呼んでいる.この点は,本書第2部の箇所で「共通感覚」とともに改めて論じられることとなる.

互いに相手のことを知らないでいる諸民族すべてのもとで生まれた一様な観念には,ある一つの共通の真理動機が含まれているにちがいない.
 この公理は,人類の共通感覚が万民の自然法についての確実なるものを定義するために神の摂理によって諸国民に教示された基準であることを確定する一大原理である.

(Vico1744,上村訳(上)167頁)

クロノス(Κρόνος)とクロノス(Χρόνος)

 ヘシオドスによれば,黄金時代の神々の支配者はクロノス(Κρόνος)だったとされている.クロノスはギリシア神話における大地および農耕の神であった.そのため,ローマ神話における農耕神であるサトゥルヌス(Saturnus)と同一視されてきた.一つ注意が必要なのは,同じ読み方でクロノス(Κρόνος)とは別の神であり時間の神であるクロノス(Χρόνος)の存在である.クロノス(Χρόνος)は「年代学」の由来でもある*7.

これはラティウム〔ラツィオ〕の諸国民のもとで始まった神々の時代であって,特性の面でギリシア人の黄金の時代に対応している.やがてわたしたちの神話学によって見いだされるように,ギリシア人にとって最初の黄金は穀物であった.そして穀物の収穫によって最初の諸国民は何世紀にもわたって年をかぞえていたのだった.また,サトゥルヌスはローマ人によって〈サトゥス〉satus,種を播かれた,ということからこう呼ばれた.このサトゥルヌスのことをギリシア人は〈クロノス〉と呼んでいるのだが,そのギリシア人のもとでは〈クロノス〉 Χρόνος は時間のことであって,ここから〈クロノロジーア〉〔年代学〕という言い方は出てきたのである.

(Vico1744,上村訳(上)114–115頁)

サトゥルヌスであれクロノスであれ,これらの神々が互いに混同されてきたとはいえ,麦穂の収穫の周期という点から農耕と時は密接な関係を持っていたわけで,そのかぎりで農耕の神が時を司る神とみなされてきたと思われる.

祭壇と天

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祭壇が地球儀の下にあってこれを支えていることについても,これを不適切であるとおもってはならない.なぜなら,世界の最初の祭壇は異教徒たちによっていずれも詩人たちのいわゆる第一天に建立されていたことが見いだされるからである.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

祭壇とは神聖なものなので,祭壇の上に余計なものを乗せることは不適切だと思われる可能性がある.だからヴィーコは,なぜ祭壇の上に地球儀が乗っかっているのかを説明しなければならなかったのかもしれない.
 ここで「第一天」という表現はよくわからない.おそらく地上と非常に近い天界をそのように呼んでいるのではないだろうか.

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詩人たちは,かれらの物語〔神話伝説〕のなかで,生育期にあった人類の幼児とでも言うべき最初の人間たちが——今日でも,幼児たちは,天は家の屋根とほとんど同じ高さのところにあると思いこんでいるように——天は山々の台地よりも高くはないと思いこんでいた時代に,天神は地上にあって人間たちに君臨し,人類にいくつかの大いなる恩恵を残したと,これまた忠実にわたしたちに伝えているのである.それがその後,ギリシアの人々の知性がしだいに展開していくにつれて,ホメロスがかれの時代に神々がそこに住んでいたと語っているオリュンポス山のように,高山の頂上にまで高めあげられていった.そして最後には,今日天文学がわたしたちに論証してみせているように,天界にまで高めあげられ,オリュンポス山も恒星天にまで高めあげられるにいたったのであった.これと同時に,祭壇も天に運ばれていって,ひとつの天宮を形成する.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

西洋占星術では,12のサイン(宮)を合わせて黄道十二宮などと呼ぶ.
 古代の人々はオリュンポス山のような地上に神々が住んでいたと考えており,これは「人類の幼児」の持つ「想像力」によるものである.ヴィーコは歴史の初期の段階を「幼児」になぞらえて表現しており,「幼児」の特徴について本書第2部で次のように述べている.

幼児にあっては記憶力がきわめて旺盛である.ひいては想像力が過度なまでに活発である.想像力というのは拡大または合成された記憶力にほかならないのである.
 この公理は,最初の幼児期の世界が形成していたにちがいないもろもろの詩的形象がいずれもじつに明白であることの原理である.

(Vico1744,上村訳(上)197頁)

「幼児」の特徴は凄まじい「記憶力」と「想像力」にある.だからこそ古代人は神話を持ち得たのだといえるかもしれない.

ヘラクレスの「火」

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また,それの上に置かれている火は,ご覧のように,獅子の隣の宮座に移される(獅子は,いましがたも注意しておいたように,ヘラクレスがそこに火を発生させて耕地に変えたネメアの森であったのである).そして,その獅子の皮も,ヘラクレスの勝利を記念して,星辰にまで高めあげられたのだった.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22–23頁)

祭壇の上に置かれている「火」は,ヘラクレスを表象しており,地球儀の中に描かれている獅子と隣り合わせになっている.ヘラクレスの十二の功業により,獅子は獅子座という星座になり,ヘラクレスはヘルクレス座という星座になった.ヘラクレスとネメアの獅子については『新しい学』第4部「詩的家政学」でも次のように触れられている.

最後に,大地は凶暴で平定には多大の努力を要するという面をとらえたところから,最強の動物がつくりあげられた.ネメアの獅子である(そのためにそれ以来,動物たちのうちで最強のものには〈獅子〉という名があたえられるようになったのである).この獅子を文献学者たちは途方もなく大きな蛇ではなかったかとも考えようとしている.また,これらはすべて口から火を吐き出すが,これはヘラクレスが森に放った火であったのだ.

(Vico1744,上村訳(上)475頁)

しかし気になるのは「火」である.ヘラクレスの神話にはどうやら「火」は出てこないようなのである.何か手がかりはないものか.

ゼノンの運命論(宿命論)とエピクロスの原子論

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神の摂理の光線は,形而上学が胸の飾りにしている凸面の宝石を照らしている.これは,傲慢な才気によっても卑賤な肉体的快楽によっても汚濁されていない清澄で純粋な心をここ〔本書〕では形而上学はもつべきであることを指し示している.前者の傲慢な才気によってゼノンは運命〔宿命〕を生み出し,後者の卑賤な肉体的快楽によってエピクロスは偶然を生み出した.そして,両者は,このために神の摂理の存在を否定してしまったのであった.

(Vico1744: 4–5,上村訳(上)23頁)

ここで2人の哲学者が登場する.キティオンのゼノン(Ζήνων ὁ Κιτιεύς, 335–263 BC)とエピクロス(Ἐπίκουρος, 341–270 BC)である.ゼノンはストア派の創始者である.彼の言葉に「運命 πεπρωμένο に従っていっさいは生ずる」というものがある.『すべては超越的な力によって左右されている』というこうした考え方は「運命論」や「宿命論」等と呼ばれる.
 ここでヴィーコが言及しているエピクロスの生み出した「偶然 Caso」とは,エピクロスの原子論と関係がある*8.エピクロスはデモクリトスの原子論を継承したが,デモクリトスの原子論が決定論的であったのに対して,エピクロスにはいわゆる「クリナメン」,つまり原子の〈逸れ〉という考え方があったとされる*9.もっともエピクロス自身の著作は散逸してしまっており,彼の思想が伝わったのは,ルクレティウス(Titus Lucretius Carus, 99–55 BC)やディオゲネス・ラエルティオス(Διογένης Λαέρτιος)らの著作を通してである.
 ヴィーコは「後者〔の卑賤な肉体的快楽〕によって col secondo エピクロスは偶然を生み出した」と述べているが,「快楽 piacere」と「偶然 caso」を結びつけているのはなぜか.エピクロスの原子の〈逸れ〉という考え方は,従来の決定論的な考え方を退け,人間の「自由意志 libera voluntas」の肯定につながった.この「意志 voluntas 」という語は,「快楽 voluptas」という語と「アルファベット一文字の違いでしかない」(中金2017:5)という点で似ており,この点でエピクロスの原子論がかれ固有の快楽主義(とっても彼は肉体的快楽の追求を称揚したのではないが)と密接な関係を持っている可能性がある.
 ヴィーコは『新しい学』の中でストア派のゼノンやエピクロスについて次のように述べている.

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 だから,この学は,それの主要な面のひとつとしては,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない.このような学がこれまで欠如していたように見えるのは,哲学者たちがストア派やエピクロス派のように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである.エピクロス派は,原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い,ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う.あるいはまた,神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである.このため,かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで,これのなかでこの神の属性を観照し,天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって,また,他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに,神の摂理を確認してきたのであった.しかし,かれらは神の摂理を国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである.

(Vico1744: 120–121,上村訳(上)262–263頁)

ヴィーコは,彼らが自然学の方面にばかり目を向けて,国家社会の事柄にかんしては「神の摂理」を考察してこなかったと指摘している.こうした観点は「著作の観念」冒頭の「哲学者たちはこれまでずっと神の摂理を自然界の秩序のみをつうじて観照してきたので,ただたんにそれ〔神の摂理〕の一部分をしか論証してこなかったのであった」(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)という箇所にも通じている.

〈私的なもの〉の表現としての「平面」と〈公的なもの〉の表現としての「凸面」

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さらにはまた,それは,これまで哲学者たちがおこなってきたように,神の認識が形而上学のところで終止してしまって,形而上学が自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなことになってはならないことをも指し示している.もしそれだけでよいのなら,平らな宝石で表示されていただろう.ところが,宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23頁)

ここで注目すべきは宝石の形状である.形而上学が身につけているのは「平らな piano 宝石」ではなく「凸面の conversso 宝石」だという.「平ら」と「凸面」の形状の違いはどこにあるのだろうか.
 宝石の平らな形状は,自己の私的な領域のうちに閉じこもってしまうこと,いわば物事を矮小化してしまうことの表現である.それは「自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなこと」だという.
 これに対して宝石の凸面の形状は,外に広がっていくこと,公的な事柄の表現である.「宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである」.この箇所をよく読むと,道徳には二種類あることがわかる.一つは前者の〈私的な道徳〉であり,もう一つは後者の〈公共的な道徳〉である.口絵の形而上学が身につけている宝石は凸面状であるから〈公共的な道徳〉を志向する表現となっている.
 ヴィーコはスコラ哲学のように社会から引きこもって自己内反省することで神を観照するような仕方を退けているわけで,そういったやり方ではなくむしろ社会の「習俗」のうちに神を観照するという方法を採用する.「哲学者たちがおこなってきたように」という箇所で批判されているのはスコラ哲学者の形而上学だとも言えるのであり,ヴィーコはここでいわば〈社会-形而上学者〉のような立場をとっている.

口絵の光線と『新しい学』の叙述の順序

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同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達しているのは,その光線が,形而上学——それは,そのような〔異教世界を創建することになった最初の〕人間たちがそもそも人間的に思考することを最初に開始したとき以来,人間的な諸観念の歴史〔Storia dell'Idee umane〕にもとづいて形成されてきたのであるが、その形而上学の力によって,わたしたちのもとで,ついに,全身がこのうえなく強靭な感覚とこのうえなく広大な想像力のかたまりであった異教世界の最初の創建者たちの愚鈍な知性にまで降りていくにいたったからである.そして,かれらは人間の知性および分別力を用いうる,唯一の,しかもまったく愚かで呆けた能力しかもっていなかったという,この同じ理由からして,これまで考えられてきたのとは異なるばかりか,まったく正反対に,詩の諸原理〔起源〕は,疑いもなく異教徒たちにとっての世界で最初の知恵であった詩的知恵,または神学詩人たちの知識の,これまた同じ理由でこれまで知られずにきた諸原理〔起源〕のうちに見出されるのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23–24頁)

冒頭に「同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達している」とあるが,要するに光線の向かう順番が『新しい学』の叙述の順番を表現している.すなわち,「神の摂理」が『新しい学』第1巻「原理の確立」に対応し,その光線が向かう「形而上学」は『新しい学』第2巻「詩的知恵」に対応し,さらに光線が反射して向かう「ホメロスの像」は『新しい学』第3巻「真のホメロスの発見」に対応しているのである.

観念の原理と言語の原理

 実際ヴィーコは『新しい学』最初の1725年版を出版したのちにその構成を反省し,以後の1730年版と1744年版で叙述を大幅に変更している*10.この辺りの事情についてはヴィーコ『自伝』で次のように述べられている.

また,いま語ったような理由によって,その著作はナポリでも他の場所でも自分が費用を負担して出版してやろうという出版者が見つからなかったため,ヴィーコは別の処理法を考え出すことにした.それはおそらくその著作が本来とっていてしかるべき処理法であったのだが,こういう必要に迫られることがなかったならば,ヴィーコにしても到底考えつかなかったであろうもので,さきに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と比較対照してみれば,そこで採用されていたやり方とは,雲泥の差があることが明らかに見てとられるのである.また,この新しい処理法のもとでは,以前の著作では著作の筋立てを維持するために「註解」のなかで切り離されて雑然と羅列されていたことがらが,いまや,新しく追加されたかなりの量の事項とともに,ひとつの精神によって組み立てられ,ひとつの精神によって統率されているのが見られる.そして,このような秩序の力が働いた結果(この秩序の力こそは,論の展開にとって本来的な性質であることにくわえて,簡潔さの主要な原因のひとつである),すでに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と今度の草稿とでは,わずか三葉分の増加があったのみである.

(ヴィーコ2012)

ヴィーコはこのように「秩序の力」によって『新しい学』の構成が変更されたと伝えているが,この構成変更は「観念の原理と言語の原理」の扱い方という本質的な問題を含んでいた.

『新しい学・第一版』では,主題においてではなかったにしても,順序においてたしかに誤った.というのも,観念の原理と言語の原理とは本性上互いに結合しているにもかかわらず,両者を切り離してあつかってしまったからである.また,そのどちらの原理とも別個にこの学があつかうもろもろの主題を展開していくさいの〔否定的な〕方法について論じたが,これらの主題は,もうひとつの〔積極的な〕方法によれば,観念と言語双方の原理から順次出てくるはずなのであった.このようなわけで,そこでは順序において多くの誤謬が生じることとなったのだった.

(ヴィーコ2012)

ヴィーコによれば「注解」スタイルはネガティヴな方法であり,なぜならそれは観念の原理と言語の原理を個別に切り離してしまうからだという.彼のポジティヴな方法はそうではなく,観念の原理と言語の原理が一体となってそこから主題が秩序をもって生まれるようなものである.

真のホメロスの発見とウァッロの三時代区分

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また,ホメロスの像がひび割れた台座の上に立っているのは,真のホメロスの発見を意味している(真のホメロスの発見については,最初に出版された『新しい学』でもわたしたちは感知してはいたが理解するまでにはいたっていなかったのであって,今回,これらの諸巻においてはじめて反省にもたらされ,十分に論証されているものである).この真のホメロスは,これまで知られずにきたため,諸国民の物語〔神話伝説〕時代の真のことがら,そしてさらに多くはこれまですべての者たちによって知ることを断念されてきた暗闇時代のことがら,ひいてはまた歴史時代の諸事蹟の最初の真実の起源をわたしたちに隠匿したままにしてきたのであった.すなわち,ローマの古事についての最も学識ある著述家,マルクス・テレンティウス・ウァッロがいまではすでに失われてしまった『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』と銘打たれた大著においてわたしたちに書きのこした〔と伝えられている〕世界の三つの時代の真実のことがらがそうである.

(Vico1744: 5–6,上村訳(上)24–25頁)

ヴィーコはこの『新しい学』の中でマルクス・テレンティウス・ウァッロ(Marcus Terentius Varro, 116–27 BC)という共和制ローマ期の学者に繰り返し言及している*11.ヴィーコが言及しているウァッロの著作は "Antiquitates rerum humanarum et divinarum" である(ただしこの著作はすでに散逸してしまっている).暗闇時代/物語時代/歴史時代の三区分はウァッロによるものである.

新しい批判術

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さらに,ここで触れておくなら,この著作では,これまで欠如していたあるひとつの新しい批判術を用いて同じ異教諸国民の創建者たちにかんする真理の探究に入ることによって(これまで批判がかかわってきた著作家たちがそれらの諸国民の内部に登場するまでには〔それらの諸国民が創建されてから〕優に千年以上が経過していたにちがいないのである),ここに哲学は文献学*12,すなわち,諸民族の言語,習俗,平時および戦時における事蹟についての歴史のすべてなど,人間の選択意志に依存することがらすべてにかんする学問の検査に乗りだす(なにしろ,それの提供する原因は残念ながら曖昧ではっきりとしておらず,また結果も無限に多様であるため,これまでそれについて推理することには,わたしたちはほとんど恐怖を抱いてきたのだった).

(Vico1744: 6,上村訳(上)25頁)

ヴィーコは『学問の方法』でクリティカとトピカという二つの方法について言及している.キケロの『トピカ』以来,クリティカは真偽についての判断の術(ars iudicandi)とされ,トピカは論拠についての発見の術(ars inveniendi)とされてきた*13.時代的には若者はポール=ロワイヤル論理学を優先的に学んでいたが,このような論理学やデカルトの方法をヴィーコは当時のクリティカとして位置付けている.こうしたクリティカ中心の時代にあって,ヴィーコはキケロに倣い,トピカがクリティカよりも先行することを説いているのである.
 以上を踏まえて先ほどのパラグラフでは,『新しい学』の中で「新しい批判術」を用いることが宣言されている.この批判術は,一体何が,どのような点で「新しい」のであろうか.これがただの「批判」ではなく,〈術 ars 〉としての「批判」であるからには,そこにはいかにしてキケロ以来の伝統が受け継がれ,そして発展させられているのであろうか.
 この批判術の〈新しさ〉は,ポール=ロワイヤル論理学やデカルト主義のようないわば〈推論の精確さ〉だけにこだわったものではないという含意があるのではないだろうか.この「新しい批判術」は,「人間の選択意志に依存することがらすべてにかんする学説を検討すること」だと述べられている.「人間の選択意志」とは一体何であろうか.この点,ヴィーコは次のように述べている.

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Ⅺ 人間の選択意志は,その自然本性においてはきわめて不確実なものであるが,人間として生きていくにあたって必要または有益なことがらについての,人々の共通感覚によって確実なものにされ,限定をあたえられる.そして,この人間として生きていくにあたって必要または有益なことがらこそは,万民の自然法の二つの源泉なのである.

(Vico1744: 76,上村訳(上)166頁)

「人間の選択意志」(あるいは「恣意」)は,いわゆる人間の自由意志に関わるものであり,エピクロスの〈逸れ〉の概念のように決定論的な発想から抜け出るものである.したがってそれはきわめて曖昧であり,ここで「不確実」と呼ばれる所以である.しかし,ヴィーコはこの「人間の選択意志」は「共通感覚」(あるいは常識,コモンセンス)によって確固として規定されているという.というのも,人間は生物として生きていくのに必要なもの,有用なものを,一定程度の共通認識として持っているからである.そして言語・習俗・歴史といったものが「人間の選択意志」に依存しているということは,これら言語・習俗・歴史などの学説は、「人間の選択意志」を規定しているところの「共通感覚」(常識、コモンセンス)を基盤としており,この「共通感覚」(常識,コモンセンス)によって(「人間の選択意志」を介して)間接的に規定されているということになる.そこでこれらの学説の基盤となっている「共通感覚」(常識,コモンセンス)こそが問題となる.

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Ⅻ 共通感覚とは,ある階級全体,ある都市民全体,ある国民全体,あるいは人類全体によって共通に感覚されている,なんらの反省をもともなっていない判断 giudizio のことである.
 この公理は,つぎの定義とともに,諸国民の創建者にかんする新しい批判術を提供するだろう.それらの諸国民のなかにこれまで批判が携わってきた著作家たちが出現するまでには,優に千年以上の歳月が経過していたにちがいないのである.

(Vico1744: 76,上村訳(上)167頁)

「共通感覚」 (常識,コモンセンス)における〈共通〉性とは「ある階級全体,ある都市民全体,ある国民全体,あるいは人類全体」における〈共通〉性であり,またその〈感覚〉性は,それが感覚であるがゆえに理性を介しない直截的で「無反省的な」ものである.
 しかもこの「共通感覚」が件の「新しい批判術」を提供すると述べられている点に関しては,わたしたちはキケロが彼の『トピカ』においてトピカとクリティカをそれぞれ〈発見の術〉と〈判断の術〉として区別していたことを想起する必要がある.これこそまさに「新しい批判術」を提供する「共通感覚」が「判断」であるとされている所以である.

ヴィーコとマルクス

 こうした「批判」の方法は様々なトピックの書物を分野横断的に読解し,「批判 Kritik」として統合していくマルクスの方法に受け継がれていると言えるのではなだろうか.かつて柄谷行人は『トランスクリティーク』(柄谷2010)でマルクスからカントへ遡って読み込む必要性を感じたと述べていたように記憶しているが,マルクスの「批判」はカント以前のヴィーコの「新しい批判術」にまで遡る必要があるのではないか.
 こうした読み方は,当時「死せる犬」と扱われていたヘーゲルの弟子だと自ら述べた序文を読んだとしてもそうはならないはずである.しかし,ヘーゲルをいくら読みといたとしてもマルクスの「批判」の立脚点は,ヘーゲルには見出すことができない.ヘーゲルとは別の思想家を経由する必要がある.もちろん若きマルクスがフォイエルバッハの人間主義に影響を受けており,そのフォイエルバッハがヘーゲル哲学「批判」をマルクスのヘーゲル法哲学「批判」よりも先に著していることは重々承知している.しかしマルクスのエスプリに富んだ「批判」の仕方*14は,同時代のいわゆるヘーゲル左派(Hegelsche Linke)の「批判」の仕方とは明らかに違っている.むしろここで注目したいのは,思想史における「批判」のもっと大きな流れのことである.
 例えば,フォイエルバッハのヘーゲル哲学「批判」の方法は,逆さまにされていた主語と述語を転倒させるというものであった.しかしこれはその内容とは裏腹に形式論理的な批判に過ぎず,素材を抜きにした単なるクリティカに過ぎなかった.これに対してマルクスはフォイエルバッハのようなクリティカだけでは空疎な批判に陥ることに気付き,『独仏年誌』(Deutsch-Französische Jahrbücher, 1844)以降,古典派経済学や人間社会に関する事柄を分野横断的にその生涯にわたって学び,現実的な問題の場所を発見すること,すなわちトピカを重視した(マルクスがエンゲルスの『状態』を評価するのもこの観点からであろう).こうした点が,マルクスと他のヘーゲル左派との大きな分岐点になったのではないかと思われる.
 マルクスがヴィーコに言及しているのは,『資本論』(Das Kapital, 1863)の一箇所とラサール宛手紙(1862. 4. 28)だけであるという(木前2008:8).しかし,もしマルクスの「批判」の源流がこのようにヴィーコに見いだされるとしたら,なんとも面白くはないだろうか.

「質料」と「形式」

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そしてそこに諸国民すべての歴史が時間の中を経過するさいの根底に存在している永遠の理念的な歴史の素描を発見することによって,それを知識の形式にまで連れ戻す.

(Vico1744: 6,上村訳(上)25頁)

ここで「知識」と訳されている原語は"Scienza"であり,これは本書のタイトル『新しい学の諸原理』における「学」のことである.
 なお「形式 forma」は,アリストテレス的な用法で、「質料」と関わりを持つ.『新しい学』第1巻「原理の確立」第2部「要素について」の冒頭では次のように述べられている.

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したがって,これまで年表の上に配列してきた質料〔materie〕に形式〔forma〕をあたえるために,わたしたちはいまここに,つぎのような哲学上ならびに文献学上の公理と,若干の合理的で適当とおもわれる要請とを,いくつかの明確になった定義とともに提示しておく.これらは,あたかも生物の体内を血液がめぐるように,この学の内部を流れめぐり,この学が諸国民の共通の自然本性について推理することがらの全体にわたって,この学に生命をあたえてくれるはずのものなのである.

(Vico1744: 72,上村訳(上)158頁)

ここで「形式 forma」と「質料 materie」が強調されているように,これらは形而上学の用語として使用されていることがわかる.『新しい学』第1巻第2部以降で「学の形式」を与えられるところの「質料」については,第1巻第1部「年表への注記——ここにおいて質料〔素材〕の配列がなされる——」で叙述されるという構造になっている.
 ここでヴィーコは「公理」のことを"Assiomi, o Degnità"というように言い換えているが,Verneによれば,この箇所は『新しい学』で"assioma"を"degnita"と等置した唯一の箇所だそうである*15.Verneは,ユークリッドの『原論』,ニュートンの『プリンキピア』,そしてアリストテレスの『分析論後書』に言及した後,次のように述べている.

ヴィーコはみずからの公理を哲学的かつ文献学的なものの両方として描いているが,しかしヴィーコが,『新しい学』は幾何学的な思考法に基づいていると主張しているにもかかわらず,その公理は決して自明なものでもなければ,演繹されたものでもないのである.ヴィーコの公理は,その原理としては最も必要で適合的なものとして考えられ,そして諸国民の共通の自然本性を把握するのに最も偉大な価値を有している.ヴィーコの公理は「トピカ」(τόποι)すなわちコモンプレイスという地位を有しており,そこから『新しい学』の諸々の特殊性を整序する原理が引き出されるのである.

(Venere2015: 255)

「幾何学」と〈製作者〉の思想

 たしかに「公理」や「定義」といった用語を見ると,ユークリッド幾何学のような原理原則が想起されよう.実際,ヴィーコは『新しい学』第1巻第4部「方法について」で「永遠の理念的な歴史」とともに「幾何学」について次のように言及している.

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それゆえ,この学は同時に,諸国民すべての歴史がかれらの勃興,前進,停止,衰退,終焉にわたって時間の中を経過していくさいの根底に存在しているひとつの永遠の理念的な歴史を描きだすことになる.それどころか,わたしたちはさらに一歩を進めて断言したいのだが,この学を省察する者がこの永遠の理念的な歴史を自分自身に語るのは,この諸国民の世界はたしかに人間たちによって作られてきたのであり(これはここでさきに立てられた疑いえない第一原理である.それゆえ,それの〔生成の〕様式はわたしたちの人間の知性自体の諸様態の内部に見いだされるべきであるので,その〈なければならなかったのであり,ならないのであり,ならないであろう〉という証明のなかで,彼自身がそれを自分の前に作りだしてみせるかぎりにおいてなのだ.なぜなら,事物を作る者自身がそれらについて語るとき,そのときほど話が確実なことはありえないからである.こうして,幾何学がそれの諸要素にもとづいて大きさの世界を構成したり観照したりするとき,それはその世界をみずから自分の前に作りだしているわけであるが,この学もまさしく幾何学と同様の行き方をすることになる.ただし,人間たちの事蹟にかんするもろもろの秩序には点,線,面,図形以上に実在性があるだけに,そこには,それだけいっそう多くの実在性がともなっている.そして,このこと自体が,そのような証明は一種神的なものであって,読者よ,あなたに神的な喜悦をもたらすにちがいないということの論拠になる.それというのも,神においては認識することと製作することとは同一のことがらであるからである.

(Vico1744: 124–125,上村訳(上)269–270頁)

ヴィーコが「永遠の理念的な歴史」を我々人間が語りうると考えるのは,それを作ってきたのが我々人間だからである.ここで人間はその歴史に関しては造物主たる神と同じ地位へと引き上げられている.ヴィーコは製作者の技法を「幾何学」*16になぞらえているが,〈製作者〉だけが真の意味で(いわば「神的に」)認識しているというのはヴィーコの思想としてよく知られているものであり,これを仮に〈製作者〉の思想とでも呼んでおこう.ヴィーコのこのような〈製作者〉の思想は,マルクスやサイードといった偉大な思想家に大きな影響を与えた.〈製作者〉の思想とは,それを造りし者だけがそれを最もよく理解している,というものである.ただし,ヴィーコは幾何学と人間に関する事柄との違いについても述べており,その違いは「実在性(リアリティ)」の多様性にあると述べている.

〈新しい学〉における〈権威の哲学〉の側面

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そうであるから,このいまひとつの主要な面からすれば,この学は権威の哲学であることになる.

(Vico1744: 6,上村訳(上)26頁)

「この学」つまりヴィーコの〈新しい学〉は,いくつかの主要な側面から考察されており,それらの諸側面の一つが「権威の哲学」である.ヴィーコの〈新しい学〉の主要な諸側面については,第2巻「詩的知恵」第1部「詩的形而上学」第2章「この学の主要な諸側面についての系」で次のように整理されている.

1. 神の摂理についての悟性的に推理された国家神学
2. 権威の哲学
3. 人間的観念の歴史
4. 哲学的批判
5. 永遠の理念的な歴史
6. 万民の自然法の体系
7. 世界史の始まり

先の引用箇所で最も関わりが深いと思われるのは,「詩的形而上学」の次のパラグラフである.

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この権威の哲学が神の摂理についての悟性的に推理された国家神学のあとに続いてやってくるのは,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学の提供する神学的証拠を受けて,権威の哲学はみずからの提供する哲学的証拠によって文献学的証拠を明晰判明なものにし(この三種類の証拠はすべてすでに「方法」において枚挙しておいたところである),諸国民の不明瞭きわまりない古代のことどもについて,「公理」において述べておいたように,その自然本性からしてきわめて不確実なものである人間の選択意志を確実なものへと引き戻すからである.これは文献学を知識の形式に引き戻すというに等しい.

(Vico1744: 148,上村訳(上)314–315頁)

ここで〈新しい学〉の主要な諸側面の特徴の一つは,不確実なものを確実なものへと「還元する reduce」点にある.古代のことどもが不確実で曖昧であるのは,あくまで近代諸国民のわれわれにとってのことであり,古代人の常識からすればそれは確実なものであったはずである.したがって,〈新しい学〉とは,今となっては不確実になってしまったものを,かつての確実なものへと「引き戻す reduce」というのである.

物語と論理学

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それというのも,ここで見いだし直される詩のいまひとつ別の新たな諸原理に続いてやってくる,同じくここで発見される神話学のいまひとつ別の新たな諸原理によって,物語〔神話伝説〕というのはギリシアの最も古い諸氏族の習俗の真実にして厳格な歴史であったこと,そして,第一には,神々の物語はなおも最も粗野な状態にあった異教世界の人間たちが人類にとって必要または有用なことどものすべてを神であると信じていた時代の歴史であったことが論証されるからである.なお,そのような詩の創作者は最初の諸民族自身であったのであって,最初の諸民族はすべて神学詩人たちからなっていたことが見いだされるのである.疑いもなく神々の物語によって異教諸国民を創建した当の者たちであると伝承がわたしたちに語っている,例の神学詩人たちからである.

(Vico1744: 6,上村訳(上)26頁)

この箇所を読解するにあたって,「物語」という語に注目してみよう.ヴィーコは本書第2巻「詩的知恵」第2部「詩的論理学」第1章「詩的論理学について」の箇所で,「物語」という言葉の語源的解明を以下のように試みている.

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論理学〔Logica〕という言い方はギリシア語のロゴス〔λόγος〕という語からやってきたものである.これは最初,そして本来は物語を意味していた.それがイタリア語に移し換えられてファヴェッラ〔言葉〕となったのだった.また,物語はギリシア語ではミュートス〔μῦθος〕とも言われた。そして、このミュートスからラテン語のムートゥス〔無言の/沈黙した〕という語は出てきている.言葉は,人々がまだ無言であった時代に,まずはストラボンが黄金のくだりで音声語ないしは分節語以前に存在したと述べているメンタルな言語として生まれたのだった.したがって、ロゴス〔λόγος〕は観念と話し言葉の双方を指しているのである.

(Vico1744: 153,上村訳(上)324–325頁)

「ロゴス λόγος」と「ミュートス μῦθος」とは「物語」を意味するものとして対比的に用いられていた.ヴィーコが「ロゴス λόγος は観念と話し言葉の双方を指している」と述べたとき,ヴィーコは「ロゴス」の相異なる二重の意味を強く認識していたといえる.

ヘシオドス『神統記』

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また,ここでは,この新しい批判術の諸原理を用いて,人間的な必要または利益の,異教世界の最初の人間たちによって気づかれたどのような特定の時点および特殊な機会に,かれらは,かれら自身がみずから作り出して信じこむにいたった恐るべき宗教をもって,まずはどの神々を,ついではどの神々を想像していったのかが,省察される.そのような自然神統記,すなわち,最初の人間たちの頭の中で自然的に作られていった神々の系譜は,神々の詩的歴史についての悟性的に推理された年代学をあたえてくれるのである.

(Vico1744: 6–7,上村訳(上)26–27頁)

単語

  • p.6. l.33.【接続詞】E「…と、そして」

  • p.6. l.33.【副詞】quivi「そこで」

  • p.6. l.33.【前置詞】co'「〜と共に」: 前置詞conの短縮形

  • p.6. l.34.【名詞】Principj「原理原則」: 男性名詞principioの複数形

  • p.6. l.34.【限定詞】questa「その」: 限定詞questoの女性単数

  • p.6. l.34.【形容詞】Nuov'「新しい」: 形容詞nuovoの女性形nuovaの短縮形

  • p.6. l.34.【名詞】Arte「芸術」: 女性名詞arte

  • p.6. l.34.【形容詞】Critica「批判」: 形容詞criticoの女性形

ここで触れられている内容は,訳者(上村忠男)が示しているように,ちょうど本書第一部「年表への注記」の以下の箇所と対応している.

画像39

この時代についておもしろいことをひとつ,神話伝説はわたしたちに語っている.神々は地上で人間たちと交わっていたというのだ.わたしたちもまた,年代学に確実性をあたえるために,この著作において,あるひとつの自然神統記,すなわち,人間的な必要または利益にかかわる一定の機会がおとずれたとき,それらを自分たちに恵みあたえられた援助ないし恩恵であると感じとって,ギリシア人の想像力のなかで自然に作られていった神々の誕生の系譜を省察するであろう(当時は,世界がいまだ幼児期にあって,もろもろの恐るべき宗教に威圧されていた.こうして,人間たちが見たり,想像したりしたもの,あるいはまたかれら自身が作り出したものまでも含めて,これらのいっさいをかれらは神々であると受けとっていたのだった).そして,いわゆる〈大〉氏族の有名な十二の神々,あるいは家族の時代に人間たちによって祭られていた神々について,詩的歴史についての悟性的に推理された年代学を用いて十二の小時期を設けることによって,神々の時代が九百年間続いたことが確定される.こうして世俗の世界史に起源があたえられることになるのである.

(Vico1744: 51,上村訳(上)111–112頁)

ヴィーコがここで「自然神統記 Teogonia Naturale」と呼んでいるものは,これが「ギリシア人の想像力のなかで自然に作られていった神々の誕生の系譜 Generazione degli Dei, fatta naturalmente nelle fantasie de'Greci」である点を考慮すると,おそらく紀元前700年頃の古代ギリシアの詩人ヘシオドス(Ἡσίοδος)の作品とされている叙事詩『神統記』(θεογονία)のことを指していると思われる.「テオゴニアー」という言葉は本来「神々の誕生の系譜」の意である.したがってまたヴィーコが「十二の神々 dodici Dei」と呼んでいるのも,ギリシア神話のいわゆるオリュンポス十二神(Δωδεκάθεον)のことであろうと思われる.

ホメロスの詩とその文体

こうしてまた,第二には,英雄物語 Favole Eroiche も,すべての諸国民においてそれらの国民が野蛮状態にあった時代に花開いていたのが見られる英雄たち Eroi とかれらの英雄的習俗の真実の歴史 Storie vere なのであった.だから,ホメロスの二つの詩なおも野蛮状態にあったギリシアの諸氏族の自然法の大宝庫であることが見いだされるのである.なお,その時代はギリシア史の父 Padre della Greca Storia と称されるヘロドトス Erodoto の時代までギリシア人のあいだで続いていたことが,この著作 Opera において確定される.じっさいにも,ヘロドトスの著作はいずれも大部分が物語で埋まっており,文体 Stile もホメロス的な Omerico ところを多分にとどめている.そして,かれのあとに続いてやってきて,詩的な語法と通俗的な語法との中間を行くような語法を使っている歴史家 Storici たちもすべて,なおもこの勢力圏内にとどまっていたのであった.

(Vico1744: 7,上村訳(上)27頁)

「ホメロスの二つの詩」というのは『イリアス』と『オデュッセイア』のことであろう.なぜこれらが「ギリシア諸氏族の自然法の二大宝庫」なのか.その理由は,まさにホメロスの詩が伝承された最も古い文学作品であったからではないだろうか.
 今回注目したいのは,ヴィーコが「文体 Stile」に言及している点である.まず「文体」が「ホメロス的」だというのは,どういうことを意味するだろうか.ホメロスの詩が文字として書き起こされたのは紀元前6世紀頃であり,その作品の成立した紀元前8世紀頃よりもずっと後になってからである.それまでの間,ホメロスの詩は朗読されて伝承されてきたのであるから,そこには音楽的な抑揚があったと考えられる.その点を考慮すると,ヴィーコが「詩的な」フレーズと「通俗的な」フレーズという区別をしたことの意味も理解できるだろう.つまりヴィーコは,ホメロスの詩にみられるような音楽的な抑揚のある文体のことを「詩的な」フレーズと呼び,後にそうした音楽的な抑揚の失われた散文のような文体のことを「通俗的な」フレーズと呼んで区別したのではないだろうか.年代的には「詩的な」フレーズが「通俗的な」フレーズに先行していたのであり,「詩的な」フレーズが失われてしまうまでは,ホメロスの「勢力圏内にとどまっていた」のである.

単語

  • p.7. l.7.【名詞】favole: 女性名詞favola「寓話、物語」の複数形

  • p.7. l.7.【形容詞】eroiche: 形容詞eroico「英雄の」の女性複数形

  • p.7. l.7.【動詞】furono: 動詞essere「〜である」の直接法遠過去/三人称複数

  • p.7. l.8.【名詞】storie: 女性名詞storia「歴史、物語」の複数形

  • p.7. l.8.【形容詞】vere: 形容詞vero「真実の」の女性複数形

  • p.7. l.8.【縮約】degli: 前置詞diと冠詞gliの縮約(contraction)

  • p.7. l.8.【名詞】 eroi: 男性名詞eroe「英雄たち」の複数形

  • p.7. l.8.【限定詞】lor: 所有限定詞loro「彼らの」の語尾音消失(apocope)形

  • p.7. l.8.【形容詞】eroici: 形容詞eroico「英雄的」の男性複数形

  • p.7. l.8.【名詞】costumi: 男性名詞costume「習慣、慣習」の複数形

(つづく)

*1: 「もっとも,誤解があってはいけないのでことわっておくが,「これが形而上学という名辞の意味であるからである」という一句の意味については,これを形而上学すなわちメタフィジカという名称が「後」ないし「超越」の意をあらわす接頭辞〈メタ〉と〈フィジカ〉すなわち「自然学」の合成語であることに言及したものと解釈することもできないわけではない.そして,この解釈を採用する場合には,図像学との連関をうんぬんすること自体,ほとんど無用になってしまう.そのうえ,そもそもヴィーコが口絵を作成するにあたって図像学辞典を参照したという確たる証拠はどこにも存在しないのである.」(上村1998:78–79).ここで上村は「これを形而上学すなわちメタフィジカという名称が「後」ないし「超越」の意をあらわす接頭辞〈メタ〉と〈フィジカ〉すなわち「自然学」の合成語であることに言及したものと解釈」しているのか否かはっきりしない.
*2: 「この添え書きがキケロ以来の記憶術の伝統を踏まえたものである」(上村1998:66).
*3: 「神の摂理についての悟性的に推理された国家神学 Teologia Civile Ragionata della Provvedenza Divina」については,次の箇所も参照.「だから,この学は,それの主要な面のひとつとしては,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない.このような学がこれまで欠如していたように見えるのは,哲学者たちがストア派やエピクロス派のように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである.エピクロス派は,原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い,ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う.あるいはまた,神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである.このため,かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで,これのなかでこの神の属性を観照し,天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって,また,他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに,神の摂理を確認してきたのであった.しかし,かれらは神の摂理を国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである.」(Vico1744: 120-121,上村訳(上)262–263頁).
*4: 「すべてのポリス(国)は,われわれの見るところ,ある種の共同体である.そしてすべての共同体は,なんらかの善をめざしてつくられている.(何故ならば,すべてのひとは自分たちが善いと思うもののためにこそ,あらゆることをなすのだからである。)それゆえ,あらゆる共同体はなんらかの善をめざすのではあるが,すべてのなかで最もすぐれ,他のあらゆるものを包含している共同体こそが,あらゆる善のうちでも最もすぐれた善を,最高の仕方でめざすものであるということ,このことは明らかである.そして,この最もすぐれた共同体こそが,いわゆるポリス(国),あるいはポリス的共同体なのである.」(アリストテレス『政治学』第1巻第1章1252A1–7).
*5: 「ヘラクレスというのは,実際には,功業という相貌のもとでとらえられた諸民族の建設者の詩的記号なのだ.」(Vico1744: 52,上村訳(上)123頁).
*6: 「女神ヘラは,テーバイの,すなわちギリシア人のヘラクレスに(というのも,さきに「公理」において述べたように,古代の異教諸国民はすべて,その国民を創建したそれぞれのヘラクレスをもっていたからである)大いなる難業に立ち向かうよう命じる.なぜなら,婚姻をともなった敬虔こそはすべての偉大な徳の最初の基礎が学ばれる学校であるからである.そしてヘラクレスは,かれがその前兆によって生みだされたゼウスの庇護を得て,それらの難業をすべて克服する.そこから,かれはヘラクレス〔Ηʹρακλῆς〕と呼ばれたのであって,これは〈ヘラス・クレオス〉Ἥρας κλέος〔Ηʹρακλείς〕,〈ヘラの栄光〉という意味なのである.そして栄光というものが,キケロの定義にあるように,〈人類に向かってなされた功績ゆえに広く行きわたった名声〉という正しい観念によって評価されるとするなら,ヘラクレスたちがかれらの難業に立ち向かうことによって諸国民を創建したということはなんと偉大な栄光であったことか!」(Vico1744: 217–218,上村訳(上)441頁).
*7: 詳しくは本書「詩的年代学」で論じられる.「神学詩人たちは,このような天文学に合わせて,年代学に始まりをあたえた.なぜなら,ラティウムの人々によって〈サトゥス〉satus,〈種播かれた土地〉ということからサトゥルヌスと呼ばれ,ギリシア人からクロノスと呼ばれていた神(ギリシア人のもとでは〈クロノス〉は時間を意味する)は,最初の諸国民(最初の諸国民はすべて農民で成り立っていた)はかれらのおこなっていた麦の収穫(それは,農民たちがまるまる一年を費やしていた,唯一の,あるいは少なくとも最大の仕事である)でもって年数を数えはじめたことをわたしたちに理解させてくれるからである.そして,かれらは最初のうち口が利けなかったので,麦の穂,もしくは麦藁の数によって,収穫をおこなった回数と,またそれと等しい数の年数を表わそうとしていたにちがいないのだった.」(Vico1744,上村訳(下)180–181頁).
*8: エピクロスの原子論における〈逸れ〉について詳しくは中金2017をみよ.
*9: 彼らの自然哲学の差異に着目したものとして,若きマルクスの学位論文がある.マルクスの学位論文について詳しくは加戸2017をみよ.
*10: この点について詳しくは上村忠男による解説(ヴィーコ2018b:540以下)をみよ.
*11: ヴィーコは第1巻「原理の確立」でウァッロについて次のように述べている.「この時代区分をマルクス・テレンティウス・ウァッロは受け継いでいないが,かれはその無尽蔵な学識のゆえにローマ人の最も開花した時代であるキケロの時代に〈ローマ人のうちで最高の学識の持ち主〉と称賛されていたほどなのだから,それは受け継ぐことができなかったのではなくて,受け継ぐことを欲しなかったのだと言わざるをえない.なぜなら,おそらくかれは,これらのわたしたちの原理からすれば古代の諸国民すべてについて真実であることが見いだされることがらをローマ国民のものであると,すなわち,ローマの神と人間にかんすることがらのいっさいはラティウム〔ラツィオ〕で生まれたと理解していたのであった.このために,かれは,時が不公平にもわたしたちから奪ってしまったかれの大著『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』において,それらローマの神と人間にかんすることがらのいっさいにラテン起源をあたえるべく努力したのである(そのウァッロに十二表法がアテナイからローマにやってきたという作り話を信じていたという説があるとは!)そして,世界の全時代をつぎのような三つ,すなわち,まずはエジプト人の言っていた神々の時代にあたる暗闇時代,ついで英雄たちの時代にあたる物語時代,そして最後に人間たちの時代にあたる歴史時代の三つに分けたのであった.」(Vico1744,上村訳(上)96–97頁).ここでヴィーコがウァッロの時代区分と対照しているのはヘロドトスの時代区分(神々の時代/英雄たちの時代/人間たちの時代)である.
*12: 「哲学 Filosofia」と「文献学 Filologia」については次の箇所も参照のこと.「哲学は道理〔理性〕を観照し,そこから真実なるものについての知識が生まれる.文献学は人間の選択意志の所産である権威を観察し,そこから確実なるものについての意識が生まれる./この公理は,後半部分にかんして,文献学者とは諸言語および内にあっての習俗や法律と外にあっての戦争,講和,同盟,旅行,通商などの双方を含めた諸国民の事蹟の認識に携わっている文法家,歴史家,批評家の全体のことである,と定義する.」(Vico1744: 75–76,上村訳(上)165頁).
*13: キケロは『トピカ』で次のように述べている.「およそ議論のための厳密な方法は二つの部門,つまり一は発見(invenire)の部門,他は判断(iudicare)の部門からなり,私が思うに,アリストテレスがこの両部門の創始者であった.ところがストア派は後者の部門だけに関心を寄せてきたにすぎない.実際,ストア派は,彼らが弁証術(dialektike)と呼ぶ学において,判断の方法だけに専心してきたのである.しかし,トピカ(topica)と呼ばれる発見の術の方が,実用に役立つだけでなく,自然の秩序において先行するにもかかわらず,彼らはこれをまったく無視してきたのである.」(キケロ2010:21).
*14: フォイエルバッハに多大な影響を受けた若きマルクスの「批判」とその「方法」については荒川2013をみよ.
*15: "Vico uses assioma only once in the New Science, and he equates it with degnità."(Venere2015: 254).
*16: ヴィーコは『自伝』の中で幾何学学習の効用について語っている(ヴィーコ2012).

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