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ヴィーコ『新しい学』試論②


農耕神サトゥルヌス

つぎに,麦穂の冠をかぶって天文学者たちのところに行く,というように詩人たちによって描かれている処女は,詩人たちがかれらの世界の最初の時代であったとはっきり語っている黄金の時代からギリシア史が始まったことを意味している.この黄金の時代には,何世紀にもわたって,歳年は小麦の収穫によって数えられていたのであって,小麦こそは世界で最初の黄金であったことが見いだされるのである.そしてこのギリシア人の黄金の時代にローマ人にとってのサトゥルヌスの時代が同一段階のものとして対応しているのであって,サトゥルヌスは,〈サトゥス〉satus,すなわち,種が播かれた土地ということから,こう呼ばれたのであった.

(Vico1744: 3,上村訳(上)20–21頁)

ここで「黄金の時代」という言葉が登場するが,これはギリシア神話のいわゆる「黄金時代」(χρύσεον γένος)を指している.
 ヘシオドス『仕事の日々』には五時代説話が叙述されており,彼は黄金時代、白銀時代、青銅時代、英雄の時代、鉄の時代という五つの時代区分を示している.

これらすべてのことからつぎの重大な系が出てくる.すなわち,金,銀,銅,鉄というあの世界の四時代区分は頽廃した時代の詩人たちが作りあげたものだということである.なぜなら,最初のギリシア人のもとで黄金の時代にその名をあたえているのは,麦というこの詩的な黄金であったからである.

(Vico1744,上村訳(上)483頁)

この歴史観においては,人類は神々とともに平和に暮らしていたが,徐々に争うようになり,人類は堕落へと進んでいったとみなされる.
 ここで登場するサトゥルヌス(Saturnus)とはローマ神話に登場する農耕神のことである.サトゥルヌスは初めて人間に農耕を教え,太古のイタリアに黄金時代を築いたとされる.

「観念の一様性」と「共通感覚」

また,この黄金の時代には神々は地上で英雄たちと交わっていた,とも詩人たちは忠実にわたしたちに伝えている.そう,忠実にである.というのも,やがて論証されるように,単純素朴で粗野な異教世界の最初の人間たちは,もろもろの恐るべき迷信でいっぱいになったこのうえなくたくましい想像力の強力な惑わしにあって,自分たちが真実地上で神々を見ているものと信じこんでいたからである.また,それがやがて,オリエント人のもとでも,エジプト人のもとでも,ギリシア人のもとでも,ローマ人のもとでも,互いに相手のことをなにひとつ知らないでいたにもかかわらず,〔かれらが人間として抱いていた〕観念の一様性によって,等しく,地上から,神々は惑星に、英雄たちは恒星にまで高めあげられていったことも,ここ〔本書〕でのちに見いだされるとおりである.このようにして,サトゥルヌスはギリシア人にとってのクロノス(Κρόνος)であるが,クロノス(Χρόνος)は同じくギリシア人にとっては時間(tempo)をも意味していて,このサトゥルヌスないしはクロノスから,年代学,すなわち時間の学説に,いまひとつ別の新たな原理があたえられることになるのである.

(Vico1744: 3–4,上村訳(上)21–22頁)

神々というのは今となっては地上の存在ではなく天界の存在と考えられているが,古代の人々にとっては神々は地上にいたのも同然と思い込まれていたので,神々は英雄と交わっていたという逸話が生まれた.ただしこれは古代人の想像力の賜物であり迷妄に過ぎなかったとヴィーコは指摘している.その迷妄が解かれる過程のためか,人類の推理・認識能力が発達したためか,次第に神々と英雄の位置付けは天界の星々へと移動していくという.
 ここで「観念の一様性」という言葉が登場する.地域の異なる国民(ここでは例えばオリエント人,エジプト人,ギリシア人,ローマ人など,地球上で見れば割と近い地域に属している国民と言えるかもしれない)が互いに知らない間柄であるにもかかわらず,共通の観念を抱いていたことをヴィーコは「観念の一様性」と呼んでいる.この点は,本書第2部の箇所で「共通感覚」とともに改めて論じられることとなる.

互いに相手のことを知らないでいる諸民族すべてのもとで生まれた一様な観念には,ある一つの共通の真理動機が含まれているにちがいない.
 この公理は,人類の共通感覚が万民の自然法についての確実なるものを定義するために神の摂理によって諸国民に教示された基準であることを確定する一大原理である.

(Vico1744,上村訳(上)167頁)

クロノス(Κρόνος)とクロノス(Χρόνος)

 ヘシオドスによれば,黄金時代の神々の支配者はクロノス(Κρόνος)だったとされている.クロノスはギリシア神話における大地および農耕の神であった.そのため,ローマ神話における農耕神であるサトゥルヌス(Saturnus)と同一視されてきた.一つ注意が必要なのは,同じ読み方でクロノス(Κρόνος)とは別の神であり時間の神であるクロノス(Χρόνος)の存在である.クロノス(Χρόνος)は「年代学」の由来でもある*7.

これはラティウム〔ラツィオ〕の諸国民のもとで始まった神々の時代であって,特性の面でギリシア人の黄金の時代に対応している.やがてわたしたちの神話学によって見いだされるように,ギリシア人にとって最初の黄金は穀物であった.そして穀物の収穫によって最初の諸国民は何世紀にもわたって年をかぞえていたのだった.また,サトゥルヌスはローマ人によって〈サトゥス〉satus,種を播かれた,ということからこう呼ばれた.このサトゥルヌスのことをギリシア人は〈クロノス〉と呼んでいるのだが,そのギリシア人のもとでは〈クロノス〉 Χρόνος は時間のことであって,ここから〈クロノロジーア〉〔年代学〕という言い方は出てきたのである.

(Vico1744,上村訳(上)114–115頁)

サトゥルヌスであれクロノスであれ,これらの神々が互いに混同されてきたとはいえ,麦穂の収穫の周期という点から農耕と時は密接な関係を持っていたわけで,そのかぎりで農耕の神が時を司る神とみなされてきたと思われる.

祭壇と天

祭壇が地球儀の下にあってこれを支えていることについても,これを不適切であるとおもってはならない.なぜなら,世界の最初の祭壇は異教徒たちによっていずれも詩人たちのいわゆる第一天に建立されていたことが見いだされるからである.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

祭壇とは神聖なものなので,祭壇の上に余計なものを乗せることは不適切だと思われる可能性がある.だからヴィーコは,なぜ祭壇の上に地球儀が乗っかっているのかを説明しなければならなかったのかもしれない.
 ここで「第一天」という表現はよくわからない.おそらく地上と非常に近い天界をそのように呼んでいるのではないだろうか.

詩人たちは,かれらの物語〔神話伝説〕のなかで,生育期にあった人類の幼児とでも言うべき最初の人間たちが——今日でも,幼児たちは,天は家の屋根とほとんど同じ高さのところにあると思いこんでいるように——天は山々の台地よりも高くはないと思いこんでいた時代に,天神は地上にあって人間たちに君臨し,人類にいくつかの大いなる恩恵を残したと,これまた忠実にわたしたちに伝えているのである.それがその後,ギリシアの人々の知性がしだいに展開していくにつれて,ホメロスがかれの時代に神々がそこに住んでいたと語っているオリュンポス山のように,高山の頂上にまで高めあげられていった.そして最後には,今日天文学がわたしたちに論証してみせているように,天界にまで高めあげられ,オリュンポス山も恒星天にまで高めあげられるにいたったのであった.これと同時に,祭壇も天に運ばれていって,ひとつの天宮を形成する.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

西洋占星術では,12のサイン(宮)を合わせて黄道十二宮などと呼ぶ.
 古代の人々はオリュンポス山のような地上に神々が住んでいたと考えており,これは「人類の幼児」の持つ「想像力」によるものである.ヴィーコは歴史の初期の段階を「幼児」になぞらえて表現しており,「幼児」の特徴について本書第2部で次のように述べている.

幼児にあっては記憶力がきわめて旺盛である.ひいては想像力が過度なまでに活発である.想像力というのは拡大または合成された記憶力にほかならないのである.
 この公理は,最初の幼児期の世界が形成していたにちがいないもろもろの詩的形象がいずれもじつに明白であることの原理である.

(Vico1744,上村訳(上)197頁)

「幼児」の特徴は凄まじい「記憶力」と「想像力」にある.だからこそ古代人は神話を持ち得たのだといえるかもしれない.

ヘラクレスの「火」

また,それの上に置かれている火は,ご覧のように,獅子の隣の宮座に移される(獅子は,いましがたも注意しておいたように,ヘラクレスがそこに火を発生させて耕地に変えたネメアの森であったのである).そして,その獅子の皮も,ヘラクレスの勝利を記念して,星辰にまで高めあげられたのだった.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22–23頁)

祭壇の上に置かれている「火」は,ヘラクレスを表象しており,地球儀の中に描かれている獅子と隣り合わせになっている.ヘラクレスの十二の功業により,獅子は獅子座という星座になり,ヘラクレスはヘルクレス座という星座になった.ヘラクレスとネメアの獅子については『新しい学』第4部「詩的家政学」でも次のように触れられている.

最後に,大地は凶暴で平定には多大の努力を要するという面をとらえたところから,最強の動物がつくりあげられた.ネメアの獅子である(そのためにそれ以来,動物たちのうちで最強のものには〈獅子〉という名があたえられるようになったのである).この獅子を文献学者たちは途方もなく大きな蛇ではなかったかとも考えようとしている.また,これらはすべて口から火を吐き出すが,これはヘラクレスが森に放った火であったのだ.

(Vico1744,上村訳(上)475頁)

しかし気になるのは「火」である.ヘラクレスの神話にはどうやら「火」は出てこないようなのである.何か手がかりはないものか.

ゼノンの運命論(宿命論)とエピクロスの原子論

神の摂理の光線は,形而上学が胸の飾りにしている凸面の宝石を照らしている.これは,傲慢な才気によっても卑賤な肉体的快楽によっても汚濁されていない清澄で純粋な心をここ〔本書〕では形而上学はもつべきであることを指し示している.前者の傲慢な才気によってゼノンは運命〔宿命〕を生み出し,後者の卑賤な肉体的快楽によってエピクロスは偶然を生み出した.そして,両者は,このために神の摂理の存在を否定してしまったのであった.

(Vico1744: 4–5,上村訳(上)23頁)

ここで2人の哲学者が登場する.キティオンのゼノン(Ζήνων ὁ Κιτιεύς, 335–263 BC)とエピクロス(Ἐπίκουρος, 341–270 BC)である.ゼノンはストア派の創始者である.彼の言葉に「運命 πεπρωμένο に従っていっさいは生ずる」というものがある.『すべては超越的な力によって左右されている』というこうした考え方は「運命論」や「宿命論」等と呼ばれる.
 ここでヴィーコが言及しているエピクロスの生み出した「偶然 Caso」とは,エピクロスの原子論と関係がある*8.エピクロスはデモクリトスの原子論を継承したが,デモクリトスの原子論が決定論的であったのに対して,エピクロスにはいわゆる「クリナメン」,つまり原子の〈逸れ〉という考え方があったとされる*9.もっともエピクロス自身の著作は散逸してしまっており,彼の思想が伝わったのは,ルクレティウス(Titus Lucretius Carus, 99–55 BC)やディオゲネス・ラエルティオス(Διογένης Λαέρτιος)らの著作を通してである.
 ヴィーコは「後者〔の卑賤な肉体的快楽〕によって col secondo エピクロスは偶然を生み出した」と述べているが,「快楽 piacere」と「偶然 caso」を結びつけているのはなぜか.エピクロスの原子の〈逸れ〉という考え方は,従来の決定論的な考え方を退け,人間の「自由意志 libera voluntas」の肯定につながった.この「意志 voluntas 」という語は,「快楽 voluptas」という語と「アルファベット一文字の違いでしかない」(中金2017:5)という点で似ており,この点でエピクロスの原子論がかれ固有の快楽主義(とっても彼は肉体的快楽の追求を称揚したのではないが)と密接な関係を持っている可能性がある.
 ヴィーコは『新しい学』の中でストア派のゼノンやエピクロスについて次のように述べている.

 だから,この学は,それの主要な面のひとつとしては,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない.このような学がこれまで欠如していたように見えるのは,哲学者たちがストア派やエピクロス派のように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである.エピクロス派は,原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い,ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う.あるいはまた,神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである.このため,かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで,これのなかでこの神の属性を観照し,天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって,また,他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに,神の摂理を確認してきたのであった.しかし,かれらは神の摂理を国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである.

(Vico1744: 120–121,上村訳(上)262–263頁)

ヴィーコは,彼らが自然学の方面にばかり目を向けて,国家社会の事柄にかんしては「神の摂理」を考察してこなかったと指摘している.こうした観点は「著作の観念」冒頭の「哲学者たちはこれまでずっと神の摂理を自然界の秩序のみをつうじて観照してきたので,ただたんにそれ〔神の摂理〕の一部分をしか論証してこなかったのであった」(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)という箇所にも通じている.

〈私的なもの〉の表現としての「平面」と〈公的なもの〉の表現としての「凸面」

さらにはまた,それは,これまで哲学者たちがおこなってきたように,神の認識が形而上学のところで終止してしまって,形而上学が自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなことになってはならないことをも指し示している.もしそれだけでよいのなら,平らな宝石で表示されていただろう.ところが,宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23頁)

ここで注目すべきは宝石の形状である.形而上学が身につけているのは「平らな piano 宝石」ではなく「凸面の conversso 宝石」だという.「平ら」と「凸面」の形状の違いはどこにあるのだろうか.
 宝石の平らな形状は,自己の私的な領域のうちに閉じこもってしまうこと,いわば物事を矮小化してしまうことの表現である.それは「自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなこと」だという.
 これに対して宝石の凸面の形状は,外に広がっていくこと,公的な事柄の表現である.「宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである」.この箇所をよく読むと,道徳には二種類あることがわかる.一つは前者の〈私的な道徳〉であり,もう一つは後者の〈公共的な道徳〉である.口絵の形而上学が身につけている宝石は凸面状であるから〈公共的な道徳〉を志向する表現となっている.
 ヴィーコはスコラ哲学のように社会から引きこもって自己内反省することで神を観照するような仕方を退けているわけで,そういったやり方ではなくむしろ社会の「習俗」のうちに神を観照するという方法を採用する.「哲学者たちがおこなってきたように」という箇所で批判されているのはスコラ哲学者の形而上学だとも言えるのであり,ヴィーコはここでいわば〈社会-形而上学者〉のような立場をとっている.

口絵の光線と『新しい学』の叙述の順序

同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達しているのは,その光線が,形而上学——それは,そのような〔異教世界を創建することになった最初の〕人間たちがそもそも人間的に思考することを最初に開始したとき以来,人間的な諸観念の歴史〔Storia dell'Idee umane〕にもとづいて形成されてきたのであるが、その形而上学の力によって,わたしたちのもとで,ついに,全身がこのうえなく強靭な感覚とこのうえなく広大な想像力のかたまりであった異教世界の最初の創建者たちの愚鈍な知性にまで降りていくにいたったからである.そして,かれらは人間の知性および分別力を用いうる,唯一の,しかもまったく愚かで呆けた能力しかもっていなかったという,この同じ理由からして,これまで考えられてきたのとは異なるばかりか,まったく正反対に,詩の諸原理〔起源〕は,疑いもなく異教徒たちにとっての世界で最初の知恵であった詩的知恵,または神学詩人たちの知識の,これまた同じ理由でこれまで知られずにきた諸原理〔起源〕のうちに見出されるのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23–24頁)

冒頭に「同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達している」とあるが,要するに光線の向かう順番が『新しい学』の叙述の順番を表現している.すなわち,「神の摂理」が『新しい学』第1巻「原理の確立」に対応し,その光線が向かう「形而上学」は『新しい学』第2巻「詩的知恵」に対応し,さらに光線が反射して向かう「ホメロスの像」は『新しい学』第3巻「真のホメロスの発見」に対応しているのである.

観念の原理と言語の原理

 実際ヴィーコは『新しい学』最初の1725年版を出版したのちにその構成を反省し,以後の1730年版と1744年版で叙述を大幅に変更している*10.この辺りの事情についてはヴィーコ『自伝』で次のように述べられている.

また,いま語ったような理由によって,その著作はナポリでも他の場所でも自分が費用を負担して出版してやろうという出版者が見つからなかったため,ヴィーコは別の処理法を考え出すことにした.それはおそらくその著作が本来とっていてしかるべき処理法であったのだが,こういう必要に迫られることがなかったならば,ヴィーコにしても到底考えつかなかったであろうもので,さきに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と比較対照してみれば,そこで採用されていたやり方とは,雲泥の差があることが明らかに見てとられるのである.また,この新しい処理法のもとでは,以前の著作では著作の筋立てを維持するために「註解」のなかで切り離されて雑然と羅列されていたことがらが,いまや,新しく追加されたかなりの量の事項とともに,ひとつの精神によって組み立てられ,ひとつの精神によって統率されているのが見られる.そして,このような秩序の力が働いた結果(この秩序の力こそは,論の展開にとって本来的な性質であることにくわえて,簡潔さの主要な原因のひとつである),すでに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と今度の草稿とでは,わずか三葉分の増加があったのみである.

(ヴィーコ2012)

ヴィーコはこのように「秩序の力」によって『新しい学』の構成が変更されたと伝えているが,この構成変更は「観念の原理と言語の原理」の扱い方という本質的な問題を含んでいた.

『新しい学・第一版』では,主題においてではなかったにしても,順序においてたしかに誤った.というのも,観念の原理と言語の原理とは本性上互いに結合しているにもかかわらず,両者を切り離してあつかってしまったからである.また,そのどちらの原理とも別個にこの学があつかうもろもろの主題を展開していくさいの〔否定的な〕方法について論じたが,これらの主題は,もうひとつの〔積極的な〕方法によれば,観念と言語双方の原理から順次出てくるはずなのであった.このようなわけで,そこでは順序において多くの誤謬が生じることとなったのだった.

(ヴィーコ2012)

ヴィーコによれば「注解」スタイルはネガティヴな方法であり,なぜならそれは観念の原理と言語の原理を個別に切り離してしまうからだという.彼のポジティヴな方法はそうではなく,観念の原理と言語の原理が一体となってそこから主題が秩序をもって生まれるようなものである.

真のホメロスの発見とウァッロの三時代区分

また,ホメロスの像がひび割れた台座の上に立っているのは,真のホメロスの発見を意味している(真のホメロスの発見については,最初に出版された『新しい学』でもわたしたちは感知してはいたが理解するまでにはいたっていなかったのであって,今回,これらの諸巻においてはじめて反省にもたらされ,十分に論証されているものである).この真のホメロスは,これまで知られずにきたため,諸国民の物語〔神話伝説〕時代の真のことがら,そしてさらに多くはこれまですべての者たちによって知ることを断念されてきた暗闇時代のことがら,ひいてはまた歴史時代の諸事蹟の最初の真実の起源をわたしたちに隠匿したままにしてきたのであった.すなわち,ローマの古事についての最も学識ある著述家,マルクス・テレンティウス・ウァッロがいまではすでに失われてしまった『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』と銘打たれた大著においてわたしたちに書きのこした〔と伝えられている〕世界の三つの時代の真実のことがらがそうである.

(Vico1744: 5–6,上村訳(上)24–25頁)

ヴィーコはこの『新しい学』の中でマルクス・テレンティウス・ウァッロ(Marcus Terentius Varro, 116–27 BC)という共和制ローマ期の学者に繰り返し言及している*11.ヴィーコが言及しているウァッロの著作は "Antiquitates rerum humanarum et divinarum" である(ただしこの著作はすでに散逸してしまっている).暗闇時代/物語時代/歴史時代の三区分はウァッロによるものである.

*7: 詳しくは本書「詩的年代学」で論じられる.「神学詩人たちは,このような天文学に合わせて,年代学に始まりをあたえた.なぜなら,ラティウムの人々によって〈サトゥス〉satus,〈種播かれた土地〉ということからサトゥルヌスと呼ばれ,ギリシア人からクロノスと呼ばれていた神(ギリシア人のもとでは〈クロノス〉は時間を意味する)は,最初の諸国民(最初の諸国民はすべて農民で成り立っていた)はかれらのおこなっていた麦の収穫(それは,農民たちがまるまる一年を費やしていた,唯一の,あるいは少なくとも最大の仕事である)でもって年数を数えはじめたことをわたしたちに理解させてくれるからである.そして,かれらは最初のうち口が利けなかったので,麦の穂,もしくは麦藁の数によって,収穫をおこなった回数と,またそれと等しい数の年数を表わそうとしていたにちがいないのだった.」(Vico1744,上村訳(下)180–181頁).
*8: エピクロスの原子論における〈逸れ〉について詳しくは中金2017をみよ.
*9: 彼らの自然哲学の差異に着目したものとして,若きマルクスの学位論文がある.マルクスの学位論文について詳しくは加戸2017をみよ.
*10: この点について詳しくは上村忠男による解説(ヴィーコ2018b:540以下)をみよ.
*11: ヴィーコは第1巻「原理の確立」でウァッロについて次のように述べている.「この時代区分をマルクス・テレンティウス・ウァッロは受け継いでいないが,かれはその無尽蔵な学識のゆえにローマ人の最も開花した時代であるキケロの時代に〈ローマ人のうちで最高の学識の持ち主〉と称賛されていたほどなのだから,それは受け継ぐことができなかったのではなくて,受け継ぐことを欲しなかったのだと言わざるをえない.なぜなら,おそらくかれは,これらのわたしたちの原理からすれば古代の諸国民すべてについて真実であることが見いだされることがらをローマ国民のものであると,すなわち,ローマの神と人間にかんすることがらのいっさいはラティウム〔ラツィオ〕で生まれたと理解していたのであった.このために,かれは,時が不公平にもわたしたちから奪ってしまったかれの大著『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』において,それらローマの神と人間にかんすることがらのいっさいにラテン起源をあたえるべく努力したのである(そのウァッロに十二表法がアテナイからローマにやってきたという作り話を信じていたという説があるとは!)そして,世界の全時代をつぎのような三つ,すなわち,まずはエジプト人の言っていた神々の時代にあたる暗闇時代,ついで英雄たちの時代にあたる物語時代,そして最後に人間たちの時代にあたる歴史時代の三つに分けたのであった.」(Vico1744,上村訳(上)96–97頁).ここでヴィーコがウァッロの時代区分と対照しているのはヘロドトスの時代区分(神々の時代/英雄たちの時代/人間たちの時代)である.

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