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大江健三郎は働いたら負けなのです!

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

大江健三郎『職業としての作家』

大江健三郎氏は独自の文体で知られる小説家の一人である。上の例はしかし小説ではなくてエッセイだ。文体の問題に深くかかわるので、この文章について軽々に良い悪いを論ずる自信は私にはない。しかし、どう考えても、これが「わかりにくい文章」であることには違いない。周囲の数人に(大学の語学教師も含めて)きいてみたが、一読して理解した人はいなかった。(以下略)

本多勝一『日本語の作文技術』

ネットからお借りしたのです。丁寧に読めば論理的であり、別にわかりにくくはないのです。

  • いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは(中略)ということにほかならないが、

  • あらためていうまでもなくそれは(中略)すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

大事な対比があるのです。大江自身が考えたことを作家自身みなが考えるべきだということなのです。

作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、

何をもちこみうるのかというと、「態度」なのです。

この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、

  • 作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの態度

  • この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度

なのです。この態度をとることなしには

かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、

作家という「職業」の特殊性を克服できないのです。

いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、

作家の特殊性とは、現実から離れていられることなのです。

本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、

作家は自立した職業とはいえないのではないか?ということなのです。これはつまり作家で食えなくなったら働かないといけないということなのです。「態度」=「働くこと」なのです。作家の特殊性とは「好きなことをやって金がもらえる」なのです。大江は売れなくなることを心配しており、作家みなが考えるべきことだと書いているのです。

作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、

働くことを仕事の現場に持ち込むとは「金のために書く」ことにほかならないのです。

この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、

「全体小説」は金稼ぎのための小説なのです。金+人+本なのです。

かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、

「克服」と実存主義的な言葉を使っていますが、いつまでもぬるま湯に浸っていたいに決まっているのです。作家は働きたくないでござるのです。克服したくないでござるのです。

大江はつくづく全体小説ゴミだと考えているのですが、作家みながそう考えるべきなのです。それが

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、(中略)すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

の真意なのです。しかし作家が言いたいことをそのまま書くと、読者が怒って本を買わなくなるのです。なので「悪文」に擬装し、頭の悪いやつには読めなくしてあるのです。正直に「わからない」と言えるやつは上等な部類なのです。

本多勝一の係り受けは

  • もちこみうるところの→現実世界を

  • つけねばならぬ時のことを考えるまでもなく→問いかけである

となっていますが

  • 作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界

では意味が通らないのです。なぜなら「明瞭に」と限定があるのに、全体小説の企画と現実世界の関係が全く不明瞭だからなのです。ここは「全体小説を書くのは明瞭に労働だ」なのです。作家自身が痛感するのだから、まったくもって明瞭なのです。

  • もちこみうるところの→態度

  • つけねばならぬ時のことを考えるまでもなく→課すべき

が正しいのです。作家は廃業のピンチにならなくても常々、左翼をゴミだと思い、「だまし」で読者を養分としながら頭のいいやつに向けて自分の表現をしなければならないのです。

🐾

「作家が仕事の現場に現実世界を明瞭にもちこみうる」ということに首肯するのは、「野間宏のような左翼作家の全体小説は現実を反映している」と思っている連中だけなのです。大江はこれを嘲笑しているのです。つまり大江は反左翼なのです。ディレッタントであり、反アンガージュマンなのです。「克服」という実存主義的な用語を使ったのもそのためなのです。

文芸評論家の蓮實(はすみ)重彦さんは「大江さんはノーベル文学賞を取ったから偉いのではありません。ノーベル賞とは関係なく、元々偉い作家なのです」と悼んだ。

朝日新聞デジタル

蓮實先生ももうそろそろですが、「ノーベル文学賞は頭の悪い連中が選ぶゴミ」だと思っているのです。というか賞とか「○○が認めた」というのが大嫌いなのです(自分が選ぶ分には別)。犬っちもそう思っているのです。大江もそう思っており、リベラルなノーベル賞(選考は英訳が対象ですが、この手の芸は翻訳不可能なのです)をコケにするために左翼のふりをし、世間を騙し切って大往生したのです。本当に偉い作家なのです。

死んでないことのほうが多いのです

💛

大江は

  • 野間宏(左翼)

  • 金のために書くこと

の両方が嫌いで、一挙にdisるために「全体」に特殊な意味を持たせたのです。それを支えるのが「明瞭に」なのです。「明瞭に」とあるのだから明瞭な意味を見つけなければならないのです。

「俺は全然気持ち悪くねーよ」だから全然気持ち悪くないのです。

吾峠先生が女の子の足を描きたかったことや、禰豆子がノーパンだということを指摘するのも全然気持ち悪くないのです。ちなみに

息が白くなってるし、日も出ているので、禰豆子はちょっと鬼っぽくなったラムちゃんみたいな人間なのです。

禰豆子は屋外で弟をかばって倒れていたのです。無惨の襲撃は夜だから、禰豆子は日の出に照られたのです。

炭治郎は何も知らずに禰豆子を家で拾って山を降りている途中だったのですが、「今は」日が差していないのです。「ようだが」と明瞭でない推測にして、「日が差していないから」がウソにならないようにするのは常套手段なのです。

禰豆子は話せなくなっただけで理性も感情もそのままなのです。口枷も苦しいだけで不要だったのです。「禰豆子は違うんだ 人を喰ったりしない」も明瞭な表現として額面通り受け取らなければならないのです。人を喰ってるのは吾峠先生なのです。

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