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聖的型つき新約聖書はアリストテレス哲学なのです!その4:政治哲学・最新脳科学

政治哲学・個別哲学

新約聖書は政治哲学でもあるのです。

  • 神 :reign君臨する

  • 女子:rule権威を示す

  • 男子:govern統治する

私たちが<生>という言葉の歴史を遡っていくと古代ローマで行き止まりになる。生・life・Leben・livre といった言葉は、ラテン語の vita で終着点に行き着く。それ以前の古代ギリシャ語にあっては、私たちが一語で済ませている概念は、ビオス・ゾーエー・プシュケーという三つの言葉から織りなされる概念系によって担われていた。これらの言葉の差異はどこにあるのか、なぜ古代ギリシャにあっては、三つもの言葉が用意されなければならなかったのか。これらの言葉の含意と、私たちの<生>概念はどこがどう同じで、どこがどう違うのか。生命思想史学の第一テーマである生命観史において、これらの問は重要な意味をもつ。
もとより、この小論で、「ビオス・ゾーエー・プシュケー問題」を十分解き明かすことなどできはしない。本論考が目指すのは、「ビオス・ゾーエー・プシュケー問題」にまつわる小さな問題を解きほぐすことにすぎない。

廣野喜幸、古代ギリシャにおける二つの生命概念、ゾーエ-およびビオスの分析、『ギリシャ哲学セミナー論集』XIII 2016

ポリスπόλιςとよく似た「πόλος軸」は英語のpoleでお〇ん〇んなので男性なのです。

Noun
πόλος • (pólos) m (genitive πόλου); second declension
pivot, hinge, axis, pole
axis of the celestial sphere
(astronomy) pole star
celestial sphere, vault of heaven
orbit of a star
center of the circular threshing floor
pole passing through the axletree of a carriage
concave sundial, on which the shadow was cast by the gnomon
headdress worn by goddesses
(architecture) dowel
windlass, capstan

これらを掛けたり足したりするのがpolitical philosophy政治哲学なのです。

 ✨:質料因 →  男女:質料  → 聖欲:形相因
   ↑         ↑        ↓        存在
ゾーエー:目的 ←  第一質料  → プシュケー:形相  ――――
   ↑         ↓        ↓        生成
ポリス:目的因 ←  ?:作用  ← ビオス:作用因

乾:質料因 → 地:質料 →  冷:形相因
  ↑        ↑       ↓      存在
?:目的  ←  第一質料 → 神:形相    ――――
  ↑        ↓       ↓      生成
ここ:目的因 ← 気:作用 ← 初め:作用因

ヨハネ1:2と同じなのです。ポリスは子供と信仰の君臨と政治の権威・統治に因る民主主義なのです。『けものフレンズ』というように、動物はポリスの一部ですが君臨者なのです。

ビオス・ゾーエー・プシュケー

私たちが<生>という言葉の歴史を遡っていくと古代ローマで行き止まりになる。生・life・Leben・livre といった言葉は、ラテン語の vita で終着点に行き着く。それ以前の古代ギリシャ語にあっては、私たちが一語で済ませている概念は、ビオス・ゾーエー・プシュケーという三つの言葉から織りなされる概念系によって担われていた。これらの言葉の差異はどこにあるのか、なぜ古代ギリシャにあっては、三つもの言葉が用意されなければならなかったのか。これらの言葉の含意と、私たちの<生>概念はどこがどう同じで、どこがどう違うのか。生命思想史学の第一テーマである生命観史において、これらの問は重要な意味をもつ。

廣野喜幸
古代ギリシャにおける二つの生命概念、
ゾーエ-およびビオスの分析

『ギリシャ哲学セミナー論集』XIII 2016

これらの引用から、ゾーエーとビオスの特徴付けを列挙すると以下のようなるだろう。前者がゾーエーの、後者がビオスの規定である。冒頭の括弧の中の記号は、今後の指示のためのものであり、KK はケレ-二イによる解釈、KB は木村によるもの、GA はアガンベンによるそれである。

(KK1)あまりはっきりした特徴がない生:特徴づけられた生
(KK2)ありとあらゆる生き物の生:ある特定の生の輪郭、特徴的な表情が、要するに、ある実存と他の実存を区別する外観が明らかになる生
(KB1a)限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態としての生命:特定の個体の有限の生命、もしくは生活
(KB1b)無限定の根源的生命:個々の生命ないし生活
(KB2)対象的に認識したり、識別したりすることはできない、直接的に経験するもの:対象的に認識したり、識別したりすることのできるもの
(KB3)終わりのない、死を知らないもの:終わりがあって、死ぬもの
(KB4)「生」とも「死」とも言えるもの:「生」
(GA1)生あるもの一切に共通の<生きている>という単なる事実:これこれの個人や集団に固有の<生の形式>
(GA2a1)自然な生:政治的な生
(GA2a2)生きている存在としてのわれわれの生物学的な生:われわれの政治的実存
(GA2a3)生物学的な身体:政治的な身体
(GA2b1)家の中に居場所をもつ、たんなる生き物としての人間:都市に居場所をもつ、政治的主体としての人間
(GA2b2)私的なもの:公的なもの
(GA4)声のない交流不可能なもの:口にしうる交流可能なもの

これらの諸規定のどこがどう不協和音を奏でているというのだろうか。木村のゾーエー/ビオス理解はケレーニイを踏まえているのだから、大きく捉えると、ケレーニイ=木村流の解釈とアガンベンのそれのあいだに不協和音が観取できることになる。科学史家・生命倫理学者の小松美彦(1955 年生)は、「神話学者ケレーニイの所論……を下敷きにした精神分析学者木村敏の議論では、ゾーエーとビオスの解釈がアガンベンのものとはほぼ逆転している」という。木村自身、両者の不一致を自覚的にこう捉えている。「ビオスとゾーエーの対比に関して、ここで少しいっておきたいことがあります。最近しきりに話題にされるイタリアの哲学者でジョルジョ・アガンベンという人がいるのですが、このアガンベンはゾーエーはわたしとはまったく違った意味に解釈しています。」(木村 2008、91 頁)とりわけ、「まったく違った意味」は、限定非限定に着目する(KB1)群と(GA1)のあいだに見られるという。「彼[アガンベン-引用者]もビオスについては、やはりそれが
個々の個性をもった生命、あるいは人生だと考えているのですけれども、ゾーエーのほうは、そういった個性的なビオスがただ単に動物的な意味で生きているというだけ、まだ死んでいないというだけの、つまり「剥き出しの生」の意味で使うのです。
」(木村 2008、91-2 頁)ケレーニイ=木村流の解釈とアガンベンのそれとのあいだに認められる不一致は、ゾーエーをどうみるかにかかっている(と少なくとも木村は理解している)点にあることを確認しておきたい。小松によるアガンベンとケレーニイ=木村のあいだの「ほぼ逆転している」相違は、限定/非限定に着目する(KB1)群と公/私ならびに自然的/政治的を弁別の基準とする(GA2)群とに関わる。ゾーエーとビオスの大小関係が逆転しているのではないかというのである。家を都市の構成要素と考えるなら、種的存在が家であり類的存在が都市となる。つまり、ゾーエーは種的存在に関わり、ビオスが類的存在に関与する。しかし、個体と個体の分離を超えて連続する生命という視角からすると、種的存在が個体であり類的存在が個体の分離を超えて連続する生命となる。この場合、種的存在に関わるのはビオスとなり、類的存在に関与するのはゾーエーとなり、先の言明と大小関係が逆転してしまう。小松はさらにアガンベンにおける諸規定間の齟齬についても指摘している。「したがって、……「生きているという単なる事実(生きること)」[引用者の記号では GA1]と
「家の領域で再生産・存続されるべき生」[引用者の記号では GA2 群]は等価になるはずだが、アガンベンは徹するに至っていない。
そのため、アガンベンにあってビオスは、基本的に「善く生きること」を意味するものの、あらゆる生き物に共通な「生物的な生」に対する「政治的な生」であるとともに、「家の領域で再生産・存続されるべき生」に対する「ポリスにおける政治的な生」という二重の性格を有することになる。」(小松 2011、
378 頁)

木村敏精神分析学者ではなく精神病理学者なのです。全然違うのです。類似を見つけて総合し直観する芸術と哲学と精神分析は、違いを見つけて分析し理解する学問の対極にあり相補します。精神病理学はまっとうな学問ですが精神分析学なるものは偽学問なのです。総合と分析の弁証法が研究者のフェティシズムではない知識を生むのです。

ゾーエーは動物の命ですが、ポリス的人間になって初めて個人であり「死ぬ者」なので、アガンベンのゾーエー解釈である「剥き出しの生」は不死であり、木村の解釈と一致するのです。小松の言うような逆転はないのです。また小松の指摘どおり「生物的な生」と「家の領域で再生産・存続されるべき生」は等価なのですが、ゾーエー:目的とストルゲー:目的因を区別できておらず、また小松の解釈ではアガンベンは(木村もだが)ビオス:作用因とポリス:目的因を区別できていないのです。

このように、矛盾に第三項を加えて発展させ解消するのが弁証法なのですが、第三項を見つけるには分野外に出る必要があるのです。大衆文化、とくにまんがやアニメは神話的・宗教的なものをよく保存しているので、ヒントの宝庫なのです。


結語生命思想史の観点からすると、ゾーエーは、呼吸や熱といった作用もしくはそうした作用をもたらすなにものかである。ゾーエー一般に不死性をみとめる理解は現代的な深読みである可能性があり、木村によるアガンベン批判を鵜呑みにするわけにはいかない。ビオスの生物学的解釈・政治的解釈は古代ギリシャ語自体がもつのであって、アガンベンの議論に問題があるわけではない。ゾーエー:ビオス=自然:政治=家:ポリスとするアガンベンの議論は、古代ギリシャにそういう想定があったことをいまだ論証してはいず、現代的深読みの可能性がある。したがって、アガンベンはゾーエー/ビオスに二重性格を与えていると小松は指摘したが、これは古代ギリシャにおけるゾーエー/ビオス概念が二重性格をもつのではなく、アガンベンが自説のためにもたせた可能性がある。

ここでは古代ギリシャに確実にあったアリストテレス哲学にゾーエー・ビオス・プシュケーをあてはめているのです。一般的な想定は知ったことではないのです。

カロス・アガトス・σοφόςソフォス

性質「καλόςカロス・アガトスᾰ̓γᾰθός・ソフォスσοφός」は男性なのです。

Adjective
καλός • (kalós) m (feminine καλή, neuter καλόν); first/second declension
beautiful, lovely
good, quality, useful
good, right, moral, virtuous, noble

Adjective
ᾰ̓γᾰθός • (agathós) m (feminine ᾰ̓γᾰθή, neuter ᾰ̓γᾰθόν); first/second declension
good, brave, noble, moral, gentle
fortunate, lucky
useful

Adjective
σοφός • (sophós) m (feminine σοφή, neuter σοφόν); first/second declension
clever, skillful, cunning, able
intelligent, wise, prudent

「ᾰ̓ρετή徳」はこの三つを性質を備えているのです。政治も芸術や信仰も徳がもたらすのです。政治は男性ダイモーンの自己愛:形相因を抑えますが、芸術や信仰は自己愛をやはり男性ダイモーンのエロース:形相因に変える働きがあるのです。弁証法の逆回転の抑圧サイクルではエロースが自己愛に変えられるのです。

男子の政治哲学political philosophyは愚か者:質料を魂:形相にする思考:形相因ですが、女子の「particular philosophy個別哲学」つまり芸術は徳:作用を幸福:目的にするフィリアとストルゲー:目的因であり、アーレントの「活動」なのです。ちなみに「parti割れ目の-cular粒の」なのです。

  • キュアグレース  :ストルゲー;熱;カロス

  • キュアフォンテーヌ:思考   ;冷;ソフォス

  • キュアスパークル :フィリア ;熱;アガトス

  • キュアアース   :あなた  ;地

  • ラテ       :神    ;水

プリキュアなのでエロースは表には出ないのですが。

ストルゲー:冷:質料 → (エロース:熱:デュナミス)
     ↑             ↓
思考:熱:エネルゲイア  ←  フィリア:冷:形相

徳は熱と冷の間にあるので作用なのです。

乾:質料因 →  あなた:質料 →  全て:形相因
 ↑          ↑     /   ↓     存在
幸福:目的 ← プリマ・マテリア →  神:形相  ――――
 ↑          ↓         ↓     生成
熱:目的因  ←  徳:作用  ←  湿:作用因

新約聖書では二周目の全て:形相因は男女から《神》へとつないでいましたが、ここでアエテール:第一質料プリマ・マテリアにつなぐように変えると、メビウスの帯のような表裏がないループになるのです。

メビウスの帯(メビウスのおび、英: Möbius strip, Möbius band、ドイツ語発音: [ˈmøːbi̯ʊs])、またはメビウスの輪(メビウスのわ、英: Möbius loop)は、帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせた形状の図形(曲面)である。メービウスの帯ともいう。
数学的には向き付けが不可能という特徴を持ち、その形状が化学や工学などに応用されているほか、芸術や文学において題材として取り上げられることもある。

ウィキペディア「メビウスの帯

これでやっと徳と幸福を適切に位置づけられ、間にある熱:目的因はカロスとアガトスが相当するのです。あなた:資料を神=言:形相にするのは冷のソフォス:形相因なのです。

Etymology
From καλοκάγαθος (kalokágathos, “gentleman”) +‎ -ίᾱ (-íā), from καλός καί ἀγαθός (kalós kaí agathós, “beautiful and good”), shortened as καλός κἀγαθός (kalós kagathós).
Pronunciation
IPA(key): /ka.lo.ka.ɡa.tʰí.aː/ → /ka.lo.ka.ɣaˈθi.a/ → /ka.lo.ka.ɣaˈθi.a/
Noun
κᾰλοκᾰγᾰθίᾱ • (kalokagathíā) f (genitive κᾰλοκᾰγᾰθίᾱς); first declension
the traits and character of a gentleman; nobility, gentlemanliness.
Antonym: ῥᾳδιουργίᾱ (rhāidiourgíā)
(philosophy) kalokagathia

カロカガティアkalokagathia
ギリシア語の,「美」 kalosにして,「かつ」 kai,「善」 agathosなること。「調和」を重んじたピタゴラス学派において,善と美とは原理的に同一のものの2相ととらえられ,心身の調和的発達による善美の実現こそ,人間完成の理想とするギリシアの教育観へ受継がれた。ソクラテス,プラトンにいたって,善と美はともに精神的なものにおいて本来の意義を有するとされ,「善美」は善に美を包含する道徳的完成の意味へと高められた。この思想は,のちのシャフツベリ,シラーらへ受継がれる。

答えは最初からあったのですが、プラトンがややこしくしたのです。

Agathos kai sophos (Ancient Greek: ἀγαθὸς καὶ σοφός)[1] is a phrase coined by Plato, which literally means "good and wise" in Greek. The Athenians used this phrase to describe the qualities of an honest man.
Plato apparently derived this phrase from an earlier kalos kagathos—literally, "beautiful and good".[2] The Greeks believed that external beauty (kalos) was associated with inner beauty, morality and virtue, suggesting that a beautiful face was the outward expression of a beautiful soul. To avoid this association, which often led to confusion, Plato reinvented the expression as agathos kai sophos, separating external beauty from the beauty of the soul.

wikipedia「Agathos kai sophos

8相サイクルは裏表がつながるメビウスの帯になりますが、一周目は神、二周目は男女なのでした。つまり形而上学なのです。

本書内でも度々述べられているように、アリストテレス自身は本書で扱われているような「諸存在(万物)の根本的な原因・原理」を考察・探求する学問領域のことを、「第一哲学」(希: ἡ πρώτη φιλοσοφία)等と呼んでいた。

ウィキペディア「形而上学(アリストテレス)

最新脳科学

この本は著者の解釈には誤りも少なくないのですが

  • ヒア&ナウ系:熱;形・総合・芸術・哲学・精神分析

    • オキシトシン系 :アガペー・ストルゲー;分節

    • セロトニン系  :フィリア       ;観察・連想・直観

  • ドーパミン系:冷;意味・分析・学問

    • 欲求ドーパミン系:自己愛・エロース  ;予測

    • 制御ドーパミン系:思考        ;推論

制御ドーパミン系は欲求ドーパミン系のメタシステムなのです。自己愛=執着の反対はアガペー=神の愛なのです。感覚や感情の大半は欲求ドーパミン系が生むのです。ヒア&ナウ系とドーパミン系が互いに抑制すること、ア〇メは脳の支配がドーパミン系からヒア&ナウ系に移った際に感じられることは最新脳科学で明らかにされているのです。

 オキシトシン → 質料 → 欲求ドーパミン
    ↑       ↑      ↓      存在
   目的   ← 第一質料 →  形相    ――――
    ↑       ↓      ↓      生成
 制御ドーパミン ← 作用 ← セロトニン

 ✨:質料因  →  女子・男子:質料 → 聖欲・性欲:形相因
   ↑           ↑     /    ↓      存在
イ〇ちゃう:目的  ← アイ(シ)テル →   神・言:形相  ―――
   ↑           ↓          ↓      生成
おセ〇クス様:目的因 ← テュケー:作用 ← 好奇心:作用因

Noun
τῠ́χη • (túkhē) f (genitive τῠ́χης); first declension
the act of a god
the act of a human being
(regarded as an agent or cause beyond human control)
fortune, providence, fate
chance
(regarded as a result)
good fortune, success
ill fortune, misfortune
(in a neutral sense, in plural) fortunes

テュケー(古希: Τύχη, Tȳchē)は、ギリシア神話における都市の財産と繁栄、そしてその運命を司る中心的な女神であった。その名は「運」を意味するギリシャ語で、ローマ神話のフォルトゥーナに対応する。
概要
ヘレニズム時代、次第に各々の都市はそれぞれの城壁を模した城壁冠を被ったテュケーを祭るようになった。
文学における彼女の家系も様々で、ヘルメースとアプロディーテーの娘とされたり、オーケアニス(オーケアノスとテーテュースの娘)の一人とされた。更に、ネメシスとアガトス・ダイモーン(善き霊)と結び付けられた。
ヘレニズム時代、キリスト教化までの3世紀間の硬貨にはテュケーが刻まれたものが多く見られ、エーゲ海の都市で顕著である。
中世美術では彼女はコルヌコピアや舵を持ち、運命の輪と共に描かれ、運命の輪の全てを統括していた。
また、ガンダーラのギリシャ仏教美術ではハーリティー(鬼子母神)と密接に関連する。

ウィキペディア「テュケー

Ce qui est manqué n'est pas l'adaptation, mais tuché, la rencontre.

JACQUES LACAN, LES OUATRE CONCEPTS FONDAMENTAUX DE LA PSYCHANALYSE, p.66

What is missed is not the adaptation, but tuché, the encounter.

《言》はアイI,Aye,eye(シsea,see)テルtale,tellなのです。我ながら出来すぎなのです。プラトン以来のスジ哲学はホントにホントにこんなだから!

Be Silent……

自由意志:質料因 → 古典的秩序:質料 → CPT対称性:形相因
   ↑           ↑    /     ↓      存在
 意識:目的    ←  第一質料  →   波動関数:形相 ―――
   ↑           ↓          ↓      生成
 認識:目的因   ←  情報:作用  ←  観測:作用因

CPT対称性によると、 我々の宇宙の"鏡像" —すべての物体の位置が虚数平面で反射され(パリティ反転に対応する)、すべて運動量が反転し(時間反転に対応する)、そしてすべての物質が反物質に置き換えられた(チャージ反転に対応する)鏡像宇宙— はわれわれの宇宙と全く同じ物理法則によって発展していくであろう、ということが示唆される。CPT変換はわれわれの宇宙をその"鏡像"へと変換し、その逆もまた行う。CPT対称性は物理法則の基本的な性質として認識されている。

ウィキペディア「CPT対称性

CPT対称性は「鏡像世界の」熱エントロピーと情報エントロピーを結びつけるのです。まあ鏡像宇宙もわれわれの宇宙も結局同じものなのですが。単純な時間反転であるT対称性は破れているため、ある時刻Tにおける切断面は鏡像宇宙とわれわれの宇宙で少し違うものになるはずで、この差が時間や空間の感覚の源かと思われます。

情報理論におけるエントロピーとの関係「情報量」も参照情報理論においてエントロピーは確率変数が持つ情報の量を表す尺度で、それゆえ情報量とも呼ばれる。 確率変数Xに対し、XのエントロピーH(X)は

で定義されており、これは統計力学におけるエントロピーと定数倍を除いて一致する。この定式化を行ったのはクロード・シャノンである。
これは単なる数式上の一致ではなく、統計力学的な現象に対して情報理論的な意味づけを与える事ができることを示唆する。情報量は確率変数Xが数多くの値をとればとるほど大きくなる傾向があり、したがって情報量はXの取る値の「乱雑さ」を表す尺度であると再解釈できる。よって情報量の概念は、原子や分子の「乱雑さの尺度」を表す統計力学のエントロピーと概念的にも一致する。
しかし、情報のエントロピーと物理現象の結びつきは、シャノンによる研究の時点では詳らかではなかった。この結びつきは、マクスウェルの悪魔の問題が解決される際に決定的な役割を果たした。シラードは、悪魔が分子について情報を得る事が熱力学的エントロピーの増大を招くと考えたが、これはベネットにより可逆な(エントロピーの変化ない)観測が可能である、と反例が示された。最終的な決着は1980年代にまで持ち越された。ランダウアーがランダウアーの原理として示していたことであったのだが、悪魔が繰り返し働く際に必要となる、分子についての以前の情報を忘れる事が熱力学的エントロピーの増大を招く、として、ベネットによりマクスウェルの悪魔の問題は解決された。
この原理によれば、コンピュータがデータを消去するときに熱力学的なエントロピーが発生するので、通常の(可逆でない=非可逆な)コンピュータが計算に伴って消費するエネルギーには下限があることが知られている(ランダウアーの原理。ただし現実の一般的なコンピュータの発熱とは比べるべくもない規模である)。また理論的には可逆計算はいくらでも少ない消費エネルギーで行うことができる。
さらにエドウィン・ジェインズ(英語版)は統計力学におけるギブズの手法を抽象することで、統計学・情報理論における最大エントロピー原理を打ち立てた。この結果、ギブズの手法は統計学・情報理論の統計力学への一応用例として再解釈されることになった。
統計力学と情報理論の関係は量子力学においても成立しており、量子統計力学におけるフォン・ノイマンエントロピーは量子情報の情報量を表していると再解釈された上で、量子情報や量子計算機の研究で使われている。

ウィキペディア「エントロピー

どうやら宇宙の根本的な法則は「エントロピーの保存」ではないか、という研究もあるのです。

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