1-2.自分の経歴(小学校入学まで)
こんにちは!
はりねずみです。
今日は、前回紹介しきれなかった自分の経歴について紹介します。
こんなこともあったな~とか思いながらつらつらと書くつもりなので、興味のある所だけ読んでもらえればと思います。
※長すぎだと思ったら途中で切ります。
目次は以下の通りです。
幼稚園の入園まで
正直このころの記憶は一切ない。
小中の課題で自分のアルバムを作ったときの記憶では、
・夜泣きで母をノイローゼにさせた
・祖母の家の石油ストーブでやけど
・祖父母の家の窓(床から天井まである高さのタイプ)から落下して頭を縫う
・母の読み聞かせの内容を暗記し、ひらがなを読める前から来客に読み聞かせをした
などのとんでもエピソードや親バカエピソードが多い気がする。
乳幼児の時代にけがを何度もしていたことを考えると、両親の心配はこの上なかっただろう。
1歳半から祖父母の家に預けられていた。
基本的には朝(7時半ごろ)から夕方にいて、母曰く見送る姿と迎えを待つ姿が子犬の様でかわいかったらしい。
これも親バカフィルターが入っているはず…
あと、アレルギーの件も両親に負担をかけてしまったなと思っている。
1歳の誕生日の写真を見ると、白いケーキの上にクリームと果物のトッピング。
実はこのケーキ、スポンジではなく食パンを使った母の手作りだ。
それもそのはず、私は卵アレルギーで幼稚園に入るころまでは加熱したものも加工品も食べられなかった。
また最初はどの程度で症状が出るかもよくわかっていなかったため、本人だけでなく両親も卵を使った食品をたべなかったらしい。
(アレルギー持ちの親御さんはよく知っているが、ハムやソーセージなどの肉加工品には卵がつなぎとして使われていることが多い、加工食品が使えないのは主婦にとって大変痛手である)
アレルギーは卵だけでなく、ハウスダスト、ダニは6段階の最高位を超え、花粉についてはスギ、ヒノキだけでなく、イネ科などの測定したすべてがレベル2以上(陽性)
無意識に掻いてしまうことも多く、1歳に満たない頃の写真は常時手袋と靴下を装着。
アレルギー関連の通院も多く、両親には大変負担をかけてしまった。
幼稚園生時代
幼稚園へは距離のわりに、家族が送迎ができないためバス通園。
年少時は弟の育休のため、年中からは母が仕事復帰したためである。
年少の頃は、粘土や外遊び、年中の頃からは泥団子やお絵かきで遊んだ。
年中から遊ぶ友達が変わった理由は、同じバスの子が少し大人びているところに憧れたから。
アレルギーだったこともありプールの経験が少なく、水泳は1番下のコースから始まった。(アレルギーの関係で水泳も結構休んだ。)
園で放課後に行う体操にも通ったが、2年間で逆上がりができるようにならず、運動神経はあまりよくない。
因みにこのお迎えは祖父にお願いしていた。
年中のときは祖父母の家で、一人で絵を描いたり折り紙をしたりして親の帰宅を待っていた。
この時は曾祖母も存命だったため、一緒にあやとりやお手玉、簡単な編み物を教えてもらったこともある。
弟が一緒の幼稚園に通うようになってからは、弟と一緒にブロックや工作で遊ぶか、テレビを見ていた。
物心ついた時からそんな感じなので、いわゆるおじいちゃん子、おばあちゃん子。
祖父母にはよく面倒を見てもらいましたが、毎日楽しく過ごしていました。
ありがとう!
休日は近所の図書館によく連れて行ってもらった。
家の前が畑のため、畑で弟と2人よく遊んだ。
(畑の利用者は祖父の知り合いばかり、昆虫採集や収穫の手伝いをした)
今日はここまで
ちょっと分量が長くなったため、続きは次回以降に回します。
次回の更新は来週の予定です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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