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期待される親の役割

p248
マヤは、娘を心配することで、別の種類の責任についても明らかにしている。それは、子どもの人生の準備をすることが、親の最も重要な仕事であるという考えから生じる責任感である。

娘や息子が社会の一員になれるよう、親は「世の中の仕組み」を教えなければならない。その指導の多くは、他のみんな、特に親の生き方を真似なさいと説得することだ———ただし、それで親がうまくいった場合は、という条件がつく。一方で、「親の過ちをくり返すな」というメッセージを伝えることが、子どもの成人後の備えになる場合もあるだろう。

書籍「母親になって後悔している」の中で
〈親というものはこうあるべきだ〉という社会のイデオロギーが解説されている箇所をまとめました。

記事の後半は〈産んだけど育てていない母親〉の小説について

p161
 現代社会において、母は、価値のある養育者であり道徳的な人間であると見なされるために、ある決まったやり方で子どもを愛することが期待されている。父の愛はもちろん歓迎され、大いに尊重されるが、それについては稼ぎ手としての主要な立場に追加される「ボーナス」として評価されがちだ。

p163
愛という感情はさておき、母は、子どもを愛していると口に出して強調することを期待される。なぜなら、そうした声を要求する社会に住んでいるから。

p269
多くの母は、別の、おそらくもっと微妙な問題に苦しめられている。それは、新自由主義と資本主義の「完璧であれ」という精神だ。このモデルによると、「正常な母性」が起こりうる「正常な状況」があり、常にそれらを達成するために努力する必要がある。

親としてのプレッシャーだけではなく、あらゆる場面で
「皆さんは社会を構成するメンバーとしてふさわしい人間にならなくてはいけません」というメッセージがメディアや教育を通して伝えられている。

p277(インタビューの回答より)
『キャリア』と『子ども』のジレンマについては、しょっちゅう話題になりますが、どちらも欲しくない人だって、いるのです。好きなことを続けるために、働いて稼ぎたいけれど、「キャリア」や進歩を望まない人もいます。個人的には、私は興味がありません。

別の本にあった「標準家族」の箇所も思い出した。こちらは、男性の育休義務化や、保育園よこせ!の流れについて

「子どものメンタルの病気=親のせい」という俗流フロイト主義が広がったことの裏返しで、過度な〈標準家族〉の理想化が起きているように思うのです。
標準的な家族であれば、子どもは精神の病気になんかならない。なっていたら、その家族が完璧ではなかったか、甘えているかだ。そうした気分が背景にあるから、「ぼくの考えた最高の家族像」を国は全面支援せよといった主張を、臆面なくできてしまうのではないでしょうか。

心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋」斎藤環 , 與那覇潤

「春琴抄」 谷崎潤一郎

こちらの作品では、主人公の女性は子どもをすべて養子に出しており(4人出産、うち1人は死産)それを悲しむような描写もない。

多くの小説や映画の中で
「産んだ子は親が育てなくてはいけない」
「たとえ手放したとしても、彼らを思い出すべきである」

といったメッセージが下敷きになっており、それが当たり前=常識と刷り込まれていたため、学生のころ春琴抄を読んだときは驚いた。

もしかすると江戸から地続きの明治時代では、養子は珍しくなかったからかもしれない。

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