「後藤ひとり」というキャラクター

創作でキャラクター設定、してますか?
やっぱ説得力のあるキャラクターを表現するならバックボーンは欠かせませんよね。
だからその辺はしっかり考えていこうね!!

ね!!!

さて建前はこの辺にして。キャラクターを眺めた時についそのバックボーンを考えてしまうのは僕の癖であり、趣味です。だって面白いんだもの。
なので今回は創作には大事な考え方だよ〜というのを建前にしつつ、趣味の話をします。なお、僕は別にしっかりと心理学とか学んでいるわけではなく、色々と我流です。そんなに信用せずに、そんな考え方もあるかもな~とかぼんやり聞き流すくらいでよろしくお願いします。

ぼっち・ざ・ろっく!観てる!?
今期のアニメの中でもちょいちょい話題に上がる人気作だと認識しています。僕も観た後、そのまま勢いでコミックス出てるところまで買いました。ぼっちがバンドを通じて友達を作っていく話なんてさぁ…隠キャには刺さるじゃん…。
さて、その中でふと思ったことが。
なんでこの子…ぼっちなんだ…?
一見、優しいお父さんとお母さん、そしてちょっと生意気な妹、犬と暮らしていて家庭環境には問題がなさそうに見えます。
優しく育てられてすくすくと育って、健康的に生きりゃあ良いじゃないか。どうしてしまったんだ後藤ひとり。
そんな視点でアニメを眺めていると、一つの事実に思い当たります。
…過干渉…か…?

人間の性格は、それまでの経験に対する答えだと僕は考えています。
5~7歳くらいの環境や経験により基本的な価値観が決まると言われており、その後中学生くらいまでは色々な経験を糧に、性格および考え方を変えていくのかなと。
高校生あたりになると、それまでに蓄積されたものが多いので簡単に性格が変わることは無くなってくるかなーと。性格をベースに、考え方だけならなんとか変えれるとは思いますがそれも容易じゃあないでしょう。何かの認識を改めるとか、凝り固まった自分の中の常識をぶっ壊す必要が出てくると思います。
さておき。
後藤家の両親は度を超えて優しいのでは、という気がしてきます。
基本的には母性によって子の自己肯定感とか自信を育み、父性によってほどよく突き放し、自立させていくのかなと。
しかしこの父親、あまりに優しすぎる。妹の後藤ふたりの中のヒエラルキーは後藤家において最低になってしまっているほど。優しくしすぎてナメられてしまったとかなんとか。
そしてひとりが自室で何かをやっていると、家族総出で心配して覗きに来る始末。ちょっとデフォルメされた表現になっているものの、リアルに考えたら結構な過干渉では。これでは自立は難しいやろなぁと思ってしまいます。
(総出で覗きに来るのはアニメオリジナルの表現でしたね…でもまぁコミックスだと母親が若者になりすまして結束バンドを宣伝したりする描写はありますし、確かにひとりを助けてくれるのは家族くらいなものの、なんというかこの線は仮説として掘り進んでもいいんじゃないのかなーという気はします)
家庭環境が暖かすぎて、外に出るのが怖くなってしまったのかなと。何かしらの失敗経験が切欠になっていそうですが、その辺の経緯は今のところ描写されていませんね。
幼少時はわりと元気に友達と遊んでたんじゃないかなって気もするんですが、アニメの冒頭で幼稚園時代もぼっちだったみたいな描写がされてますね…まぁここは原作にないシーンだし、話を分かりやすくするためリアルではない描写をすることもあるだろうし、幼稚園よりもさらに前に失敗経験をしているとか、まぁ色々辻褄とか理解を合わせることはまだ可能かなと思います。

あと山田リョウ先輩も親が干渉してくるのが嫌になって一人でいるのが好きになったという描写があるんですよね…作者の中で過干渉に対し、何かしら思うところがあるのかなって気がしてしまいます。
時々こういう、作品を通して作者を見るみたいな読み方をしてしまう時があるんですが、友人に「嫌な見方だな」って言われたことがあります。僕もそう思います。ガハハ。でもまぁ、作品から思想は漏れるものです。自分の思想をどう表現するかみたいな、こういう考えを何かしらの糧にできると良いですよね。ね。

ちょっと話が逸れるんですけど、もともと後藤ひとりは明るいキャラクターとして描かれる予定だったが、編集に今の隠キャな性格に変えられた、という話がニコニコ大百科の後藤ひとりの項に載っています。この話の出典元は知りません。
と言ってもぼっちが友達を作っていく話、というログラインは決まっていたでしょうし、明るいんだけどなんだかクラスメイトとすれ違いまくって友達ができないキャラクターになる予定だったのでしょうか。
これはなんだろう、確かになんだか不自然だし隠キャ路線と比べて共感も得にくいだろうし編集さんの判断は正しかったように思います。
仮に作者が隠キャ側の人間だとしたら、つまるところ自身の(感情的な面における)経験とかをリアルに描くことになるだろうしそりゃ色々とキツいよなー…とか想像してしまいますね…へへ…いかんいかんまたつい作者を想像してしまうクセが。

山田リョウ先輩と後藤ひとりの違いは闘争心の強弱でしょうか。
これはもうかなり持論なんですけど、人間の性格は「闘争心」と「自身への執着」の2軸でおおまかに捉えることができると思っています。いやまぁほんと、めちゃめちゃ大まかにですけど。細かい好みとかまではわかりません。そんなもんはそれまでに何と出会って、それをどう捉えたかによると思います。
親にちゃんとNOと言っている(ように見える)山田リョウはちゃんと自分の意見を人に言える、必要最低限の自己を表現する力のようなものを持っている感じがします。めちゃくちゃ反発したり当たり散らしたりって程ではないので闘争心がすごく高いってわけではないですけど、まぁまぁ、程よく。自身を殺さない程度には持っているのかなと。
この闘争心って表現だと分かりづらい気もするので、いまいちわからんって場合は自信とかに置き換えてください。厳密には違うんですが、この辺説明しようとすると多分やたらに長くなるので今回は割愛します。

人間の基本的な欲求としては、まぁ三大欲求がよく言われがちですけどこれらは生存とか種の存続のために最低限必要なものだと思っていて。次点に来る欲求はヒトの群れの中で勝ちたいor目立ちたいがあるのかなと。
闘争心が強い人は勝ちたい寄りで、低い人は目立ちたい寄りになるのかなと。尚且つ自身への執着が高いほどこの辺の欲求の度合いも高くなるのかなーと思っています。
山田リョウ先輩は闘争心は高すぎず低すぎずバランスの良いところで、自身への執着は低めなのかなーって感じに見えます。
対し後藤ひとりは闘争心が結構低く、しかし自己への執着は結構高そう、という印象です。
自己への執着とは勝ちたいとか目立ちたいとかの欲求の度合いという話は先ほどしましたが、本来これが分かりやすく出るのは服装です。
勝ちたい人は自分をより良く、カッコ良くとか、デキる人物に見せたかったり、あるいは自分の体型の悪いところを隠そうとしたり、欠点を隠すか体型の優れているところを見せるか、まぁまぁそういった考え方でコーディネートしているような感じがします。
目立ちたい人は単純に可愛い服とか奇抜な服とか、自身を優秀に見せたいわけではないが良くは見せたい、といった思考…ダサい服は恥ずかしくて着れない…とかはそういったロジックかなぁと思っています。
しかし後藤ひとりはジャージ。決して可愛い服とかではありません。先ほどの話と矛盾してますが、これは世間への恐怖からだと考えます。世間に恐怖があり、自身に自信がなく、それならいっそ目立たず生きよう、という考えの結果のジャージです。
が、本来なら、自分に自信が持てたなら、可愛い服みたいなのを着てみたいと思ってるのではないでしょうか。だってぼっちの根っこの欲求は“人気者になりたい”。でなければいいねが欲しい承認欲求モンスターになどなりえません。母親が甘い系の服を用意してくれているという設定も、作者がぼっちに可愛い服を着せてあげたい、と思っていることの表れではないでしょうか。

さて、頭の方でこれでは後藤ひとりは自立できない、ということを書きました。
しかしぼっちはぼっちなりに自立しようとしているのが見えます。実は結構偉い、ということを最後に書きたい。
世間のことは怖い。友達も欲しいが、しかし怖いのでやれる範囲は話しかけてもらえそうなポーズを作る努力まで。そう、怖くない範囲ならなんとかギリギリやれるのです。
こういう、世間は怖いんだけど怖くない範囲のことはやるっていうの、僕もめちゃめちゃ分かるのでつい共感してしまいますね…。
後藤ひとりがやった最大の努力、それは言うまでもなくギターです。
毎日帰宅後6時間練習なんて並大抵の意識でできることではありません。努力のきっかけは隠キャでも輝けることを知ったからですが、単に目立ちたいってだけでできるような努力ではありません。目立ちたいだけならギターヒーローとして登録者3万人とかになった時点で満足して終わってます。下手すりゃ1000人とかの時点で満足します。これは自信がないゆえ、現状に満足せず、ひたすら高みを目指した結果でしょう。もちろん音楽のこともちゃんと好きだし、動画編集などもしっかりとしてるしなるべく観てもらった時に楽しんでもらえる作品を作ろうというクオリティなどへのこだわりが見えます。この、他人に楽しんでもらいたいと考えれるのも一つの自立です。目立ちたいオンリーで自分のことしか考えてなければ、ひとりよがりのつまらない動画になりがちなことでしょう。登録者3万人、コミックス4巻あたりでは10万人超えてますが、これはもう完全に努力の賜物です。
不純な動機で始めただとか言ってますが、むしろ最初の動機なんて大抵そんなもんだと思っています。その後、何を成したか。これがワナビーと何者かを分ける壁ではないでしょうか。

そもそも、何故ひとりは押し入れの中でギターを弾くのか。
これは暗くて狭い空間が落ち着くとか、親に見られるのは恥ずかしいとか細かい理由は色々あると思いますが、本当に自立できてない人間はここで親に頼るもんです。
自分から親と離れようとする、最初の大きな一歩がこの押し入れではないでしょうか。
やっぱりなんだかんだ親に干渉されすぎるのは嫌なのでしょう。親のことを信頼もしているが、プライベートを見られることは恥ずかしいという形で嫌がっているように見えます。

喜多さんの指の皮が硬いとかもそうですけど、ところどころ努力を信じてる描写があって良いですね…ぼっち・ざ・ろっく!はどのキャラクターもそれぞれ努力してるんですよ…廣井さんももうちょっと頑張ってみなよとか言ってくれるし。そうなんだよ努力は裏切らないんだよな、焦るのはいつも人なのさ…。

さてはて。
なんか思ったより書いてしまった…。
色々決めつけるのもよくないと思いますが、とりあえず仮定としてこんな感じに見てみました。キャラクターをなるべく正しく見るのは二次創作する上で欠かせないじゃないですか。ね。だからこれくらい考えたっていいんです。ね。ね。
ではではー。

追記
友人から自閉症では?と言われるなど。
確かに自閉症とか発達障害とかの知識は自分には足りてないし、そっちのが辻褄合うこと多くなるのかなーと思ったりしますね。

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