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心について「いま魂の教育」より

石原慎太郎の考える5つの「心」について解説されている。
本の発売より23年たち日本はどう変わってきたのか?
今も昔も子供達には何が必要なのだろうか?
この本を読むことで、普遍で大切な「心」を見つめ直すきっかけとなるであろう。

大人が子供にできること

「世界で最も豊かな、世界で最も不幸な子供たち。」中流の家庭の子女が贅沢品が欲しいだけのために買春してはばからない国。
そう言わしめられた2001年の日本。(援助交際が社会問題になっていた)
「そんなことをして体を汚していると魂までが汚れてしまうんだよ。」
「魂って何なのよ、どこにあるのよ。」

今の私たちはどうだろう?本の発売当時の赤ん坊は23歳となり世の中をつくる新社会人となっている。


第1章 目に見えぬ力を敬う心

/朝日に向かって合掌する

海から登ってくる朝日に、何か人間を超えた絶対なるものに対する姿、潔さとして感じることができる。人間の力を遥かに超えた大きなものの存在や、秩序に順応しようとする心を持つことによって、人間は、どれだけ自らを救い、他を救うことができるか、計り知れない。そうした心の財産の素養は何よりも人間の人生の中で最も柔軟な心の状態を持っている子供の時代に植え付けられるべきものだと思う。 親は消して、子供に強いる事なくとも、日常の仕草に表すことによって、実は語らずして、子供に大きなものを伝えることができるはずです。

/家族の物語を語り継ぐ

先祖がいて、祖父母がいて、父母がいて、そして自分がいるのだと、子供自身もやがては自分の命の肌の年輪について伝えていく義務を持っていることを幼い頃から教えるべきなのです。分が間違いなく人間の系譜で輪廻と言う鎖の中でつなぎとめられた一つの輪であるということを自覚できるのです。 我々は、祖先から計り知れない数多くのものを、それは自分の人生の宿命と言う形で与えられていると言うことを、家族と言うものを強く意識し、人生のプラスに転じるように、子供に話しかける必要があるのです。

/ 死と霊魂

人間の存在と言う最も基本的な問題に対する想像力を、親は霊魂と言う肉体を離れた存在について語ることで、子供たちに教えるべきなのです。 身近な人の死に臨んで子供たちに向かって、自分たちを可愛がってくれていた人、親しかった人が、命を終えると言うだけで、私たちにとって全く消えてしまうと言うことがあり得るのでだろうか、と言う問いかけをすることによって問題に対する想像力を掻き立てることができます。霊魂に対する予感なり認識と言うものは、しょせん心の働き、つまり想像力によるしかない。肉体的な存在は仮象ではないにしても、さらにそれを空間的、時間的に上回る存在があるのだとを教えることで、子供たちがどれほど自分たちの将来に想像力を働かせ、期待を持ち得るでしょう。


第2章 自然を畏れる心

/本物のを眺めることで、われわれは人間としての自らの小ささ、力のなさを知ると同時に、自然と言う物の本体に直截に触れることができるのです。 限りなく起こっては、過ぎる波を眺めながら、親子で語り合うことで、表現することのできない美しさなり、大きさなり、広さなり、深さなり、刻々と変わる色彩なりに対する芸術的、美学的な衝動が育まれるのです。

/いちど源流から口の海まで親子して旅をしたいものです。当初手ですくって口に含んで心地よかった水が、最後には工場の廃液にまみれ、ゴミゴミした市街を抜け汚れはてて海に注がれ、そしてその海がやがて、その汚水をも浄化して再び自然に返すと言う働きを手に取り、足に踏まえ、目で見届けることで子供たちがこの世界における「変化」と言うものが意味を味わうことができます。

/雲まさしく天才です。姿態には、形作られるだけの大きな自然現象の要素の噛み合いがあり、目には見えないがそら恐ろしいほどのエネルギーが働いているのです。それを眺めることで、人間はなんと多くの様々な感情を持ち、合わすことができるのだろうか。ある場合には期待であり、ある場合には悲しみであり、ある場合には困難であり、ある場合には、幸福の予感でもあります。

/音に関しても、自分を素にして晒すと言う体験。
清流につかり、野原に転がる、「静寂」ということがどんなに必要であるか子供たちに知らせなければならないと思います。具体的に海や山に行っても1日中スピーカーが流行歌をがなりたて、都会以上に騒々しいところが少なくない。

/ 四季感

日本人は四季と言う90日間の短い期間ごとに生活様式を微細に変えていかねばならない世界に住んでいるといわれる。日本人の四季感というものは世界に類ないものであり、結局この季節感こそが日本人の精神構造と文化を作ったのだと思います。 物事の非永遠性を、1つの柔らかい情感で捉えると言うのは、ある意味で雅な心の姿といえます。「 世の中は3日見ぬ間の桜かな」 無常さへの認識は、あるいは子供に、ある恐ろしさを感じさせるかもしれない。しかしそれは人間が一生のうちで必ず突き当たる壁であり恐怖なのです。子供が子供なりの柔軟な感受性と豊富な想像力で捉え、自分自身の死と言うもののイメージを心に備え持つということは、自分の人生を強く生きていくことの絶対必要条件の1つだと私は思います。

/一粒一菩薩の実感

「 箸取らば、天地御代の御恵み、君と親との恩を味わえ」と言い食事を始める習慣があった。卓上に並べられた食べ物がどのような労苦の果てにもたらされるかと言うことを、それを噛み締め味わいながら、親が説いて教える必要があります。苗床を切り、苗を作り、それが植えられ、日の光と雨によって育まれる穀物の実り、あるいは、漁師たちの労苦の漁りによってもたらされる海の幸等々。

/生物的な共感

小さな虫の生き方を眺めることで、人間もまた同じ生命体であるが、故に、本質的には、彼らの生命の運行と変わりがないという。人間的である以前に、つまり生物的な共感を得ることができるのです。蝉やかげろうにしても、そのはかない生命的存在が、はかなければはかないほど、彼ら自身にとってはかけがえのないものであると言うことを教えることで、仏の説いた「汝殺すなかれ」という生きとし生けるもの全てに対する情愛が認識され、人間同士の人間愛を幼い頃に培うことができると思います。


第3章 他人を愛する心

/しつけ 作法 礼儀 マナー

親の手の感触は、今も鮮やかに「愛されていた」と言う実感とともに、心の奥深い処に残っています。 家庭の中で、他者との関わりについて、哀克を教えしつける、人生の準備が行われにくくなっています。 作法の大前提に、あくまでも相手を自分と同格、あるいはそれ以上の人間として認めて、その相手に対する敬意を払うと言う、つまり礼節があると言うことを教えなくては、いかなるマナーもマナーにはなり得ないのです。

/礼節の体得

短いいたわりの言葉は、優しい言葉を発するためには、まずそのような心遣いがなくてはならないのですが、その心遣いは一朝一夕ではできず、やはり日ごろ家庭で親が子に対するしつけとして培う必要があります。 きちんとわきまえた言葉遣いを親は徹底して子供に教える必要がある。その言葉遣いをわきまえることで、子供は基本的な礼節を体得できるはずです。 博愛とか献身奉仕と言う人間にとっての最高の美徳も、まず子供の頃、自分にとっての競争者を敬い、友情を感じると言う姿勢によって培われるはずです。

/ 愛の本質

子供が周りから愛されるすばらしい人間に育っていくために、何より必要なものは、他人に対する子供自身からの愛、あるいは子供に対する他人からの愛であると言うことを教えなくてはなりません。愛が、人間のすべての情緒、感情、あるいは精神に勝るものであると言う事は、教派は越えてすべての宗教が説いています。それほど普遍的な真理でありながら、実はこれほど説明しにくいものは無いのです。もし子供が感覚的にはそれを理解すれば、彼は、人生に対しての1つの大きなカギを得たことにもなるはずです。 愛情の根幹である愛の本質、つまり自分よりも他人のため思うという心の働きが、人を相手にしても、社会を相手にして持って世界を相手にしてもいかに貴重であり、大きなものをもたらすかと言うことを何度も何度も子供にといてやる必要があるのです。


第4章 自分を尊ぶ心

人間の個性や能力、尊厳が消して学校の成績では測り切れないものだということをまず子供たちに教えるべきであり、と同時に子供がなんでもいいから一目置かれる人間になるように育てるべきなのです。子供が持つそれぞれ得意な可能性は、大勢の子供に紛れた平均的な教育を施す中ではなかなか発見できない。 子供の他と違った特性を発見し、著しく、異なった個性、つまり天才を子供に自覚させてやる義務と責任があるのです。 非常に乱暴な言い方かもしれないが、この世の中のいかなる組織も、あるいは世の中全般も、所詮、その総数の1割弱の人間が、その個性能力を発揮して動かしていると思います。

 / 自らの嘘、自らの偽り

まず外に対する偽りや嘘である前に、自分自身に対する嘘であり、いつわりでしかない。自分が知れば知るほど、他の人間がそれに気づかなくても、心の中に残るのです。

/ 子供なりの挫折

そのたびに穴を味わう。親はできるだ細心に見とってやりその事柄においてだけではなしに、人生に対する強い姿勢を獲得していくための生きる勇気を与える手伝いをすべきなのです。

/ 子供は疲労に気がつかない

親は、子供が苦しみながら病床にある時こそ、子供の自主性による健康管理を強く説得すべきなのです。そうした説得が1番見に染みて体得されるのは、病気の時以外にありはしない。そして健康がいかに当たり前のことではなく、ありがたいものであるかということも併せて教えておく必要がある。

/男女同権と男女同質

多くの男も女も混同しているとしか言いようがない。女の特質は、強姦されても妊娠し、そのあげく生まれてくる子供を、女は女として愛さざるを得ない。同権であっても同質ではないところに世の中の調和があり、哀克があり、そして発展があるのです。

/ 人間の真の幸福

決して外になぞらえることができない、自らの個性を、人生の中で発揮することのできた充実感こそが真の幸せなのです。人間がそれぞれ個人として持って生まれた天性、特性を生かしきるという充足感です。

/詰め込み教育の犠牲者

詰め込み教育の犠牲者は若い多くの子供たちであり、彼らが全くしたくもないことばかりを押し付けられていることが明らかになっている。
「  あなたは今、一番何がしたいと思いますか?」「  あなたは今、何が1番好きですか?」 自分というものを捉えられないところまで追い込まれアイデンティティーをなくしてしまっている。

/無個性な人間

物事の価値を正確に測るときに必要な相対感覚が欠けている。
日本なら日本、街なら街、他と比べて、何らかの個性的な価値を持つものを、認識する心の働きがないと言うことです。その傾向は逆に、他人が一方的にあてがったものをそのまま鵜呑みにし、それを中ば絶対の価値として認め崇める無個性な人間を作ることにもなります。


第5章 想像を尊ぶ心

/嘘は独創性

自分の過ちや弱みを隠すための嘘は、指摘し咎めても良いが、いずれにしても全て嘘には独創性があります。嘘は独自の自分を作り出す技術であると三島由紀夫が言っている。 子供たちが、もし芸術家のように、自分自身という素材を奔放、自由に表現することができたならば、世の中はどれほど色彩に満ち、今以上の可能性に満ちた世界になることだろうか。

/ 楽譜を読む

人間の音楽本能と言うものは民族によって相異なることがない。音楽が人間の全ての感情、喜び、悲しみ、恐れ、驚き、そして期待、それらのものを表彰する、言葉のないしかし言葉以上に完璧な言語であるからに他なりません。 楽譜を読むことで、言語で説明しあう以上に、本質的な理解をいかなる人間とも持ち得ると言う特技を持ち、人生の中でいかに多くの可能性を育むかと言うことを親は忘れてはならないと思います。

/ 自然との交流

木に寄り添って、必ず1度手で木のの幹をなで、こずえを仰いで、心の中でその樹に対する挨拶の声をかけています。人間としての交流は、相手の声、言葉、歌を人間の言葉で心中で歌ってみてまた自ら答えることで初めて自然との交流ができるのであり、そうすることで自然が人間の体に入ってくるのです。 我々自身が自然と同じ大きさになり、自然も我々と同じ人格を持って、生き生きと、人間同士以上に綿密に相対していることになるのです。子供たちにも心の目と耳をすまして自然が何を語り、何を歌い、何を求めているかと言うことを、自分の心の口、耳、目で 人間の五官になぞらえて受け取る、つまり波長を変えることで自然の送る信号を人間の言葉として自分で自分に向けて通訳して受け止める習慣をつけさせ、人間の言葉で語り掛ける子供たちの心の声、メッセージが必ず自然の側にも波長が変わって受け取られるということを信じさせ、風にそよぐ木々や、せせらぎの音や、来ては返す波と自由に対話を行わせるべきです。


<まとめ>
彼ほど世をおそれず、明確に意見を打ち出した人物もそういないだろう。
出る杭は打たれる日本において杭でありつづけること、そこには幼少期からの経験に基づく考えの基盤と信念に添い実行し生きる彼の生き様が感じられる。「心」を教えてくれる石原慎太郎のメッセージは今だからこそ届くものがあるように思われる。

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