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続 心の風景 阿呆列車

昭和26年「小説新潮」11月号に掲載された「鹿児島阿房列車」前章の話。
汽車の中で酒を酌み交わす百閒先生と山系君。燗をつけた酒を詰めた魔法瓶2本持参したにもかかわらず、お互いに酒のピッチが上がり、すでに2本目が軽くなってしまった。
・・・
「事によると足りないぜ」
「それはそうですね、つまり、汽車が走っているものですから」
「汽車が走っているから、そうするんだ」
「走っていますので、ちっとやそっとの」
云いかけて、つながりはないらしい。後は黙って勝手に飲んでいる。
・・・
この「ちっとやそっとの」が百閒先生の耳に憑いてしまったらしい。
その後、保土ヶ谷の隧道を出たあたりでカエルの声が気になりだす。その声が途切れることなく聞こえ続ける。しかし汽車は走っているので、同じカエルの声であるはずはないのだが、どうしても声は繋がって聞こえる。
この状況は自分の酔いが回っているせいで同じカエルの声に聞こえる気がしているだけかもしれないと思いをめぐらし、この際、カエルの声にこだわるのをやめて車輪のきしむ音と言うことにしてはどうか、そう思って聞けば、そう聞こえないこともない。と、そこで、
・・・
それはそうだが、ちっとやそっとの、と不意に、さっき、山系が言いかけた文句が口に出た。
・・・
ここで「ちっとやそっとの」がまとわり憑くことになる。
戦前、長い教師生活の結果、教壇から学生を睨み付けた習慣が抜けないまま、口を「への字」まげ、不機嫌な表情に固まってしまった顔の百閒先生。汽車の中で「ちっとやそっとの」に取りつかれた百閒先生の表情は。想像すると、もう可笑しくてたまらない。
この「ちっとやそっとの」が、やがて線路の継ぎ目を刻む音と重なってしまうのである。
大船を過ぎて直線にかかったところで、汽車の速度が増し、軽快に走る音が「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」と耳に憑いてしまう。酔いも手伝って「ちッとやそッとの」の迷宮に入ってしまう。
・・・
どこまで行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」、もう蛙なぞいない。「今度着くのはどこだろう。お酒がないだろう。」
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
ちッとやそッとの、「お酒はどうだ」
口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。
「ちッとやそッとの、こう手を出して」
「なんですか、先生」
「ちッとやそッとの、ボオイを呼んで」
ボーイがノックして這入ってきて、
「お呼びでございますか先生」と云った。
・・・
ボーイの一言でようやく「ちッとやそッとの」の迷宮から抜け出すことができたらしい。
この一文が私にはたまらない。
原稿用紙という遊び場の前で、こっそりニヤニヤ、顔の右半分に薄笑いを浮かべている百閒先生が目に浮かぶ。

こんなユーモアを文章で表すことができるなんて、私にはとても真似できない。

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