グラスの中の初夏
カクテルはお好きですか?
もちろん、カクテルと言ってもいろいろなものがあり、好みも人それぞれ。
甘くやさしいフルーツを使ったものや、きりっと辛いマティーニ、その日の夜を始めるのにふさわしいジントニック。
今日はジンフィズの話をしようと思います。
ジンフィズといえば、ジンとレモン、ソーダに少しの砂糖をシェイクした甘くさっぱりした飲み心地の透明なものを思い浮かべる人が多いでしょう。
そんなジンフィズの中でも、カクテル好きなら知っている、ちょっと変わったスタイルのものがあります。
人呼んで「會舘フィズ」と呼ばれるのがそのジンフィズです。
東京・丸の内にある東京會舘で生まれたレシピで、どこが違うかといえば、牛乳を加えること。
レモンと牛乳を使うという、一見分離しそうなレシピでありながら、それを逆手に取ったようなスタイルのレシピがこのジンフィズの特徴でもあります。
今でもジンフィズをこのスタイルで、定番で出している店というと、私が愛してやまず、とはいえなかなか足が運べない銀座の「モーリバー」がその1軒。
モーリバーに行くと必ず頼むほど、私は會舘フィズを愛して止みません。
私が今住んでいる街は、これといって何があるわけでもない私鉄沿線の駅で、そんな中にひなにも稀なオーセンティックバーがあります。
初めてその店に足を踏み入れたのは今頃の時期より少し前。
表のメニューボードに書かれた「金柑のジントニック」という1杯に惹かれて階段を登りました。
それからかれこれ何年経ったでしょう。
開店して3年目くらいから通っているような気がします。
その店は毎年、オーナーバーテンダーの家の庭にある山椒を使ったカクテルを出しています。
それが今年、たぶん初めて、會舘フィズで作られていたのです。
これは!と思うものの、メンタルの不調や仕事の慌ただしさに、足を運ぶ機会を逃していました。
それが今日、Instagramを見ていたら「もう今年はそろそろおわりかなあ」とオーナーが書いているのを見つけてしまいました。
これは飲みに行くしかないと、その投稿にコメントを付け、あれこれしていた作業の手を止めてシャワーを浴び、着替えて近くのターミナル駅まで出て用事を済ませ、軽く回転寿司などつまみ、店へと向かったのです。
私が店を訪れた時間はまだオーナーはおらず、店長と談笑しながらブランデーをソーダ割りにして飲み、3杯目にシェリーカスクのウイスキーを選んで飲んでいると、オーナーが現れました。
「井出さんインスタにコメントくれてたんですね、さっき見ました」とオーナー。
もう山椒のジンフィズは締めに飲むことに決めていました。
間に1杯、これもまた今年もう最後になるであろう、やよいひめ(いちご)のマティーニを作ってもらい、その可愛らしい味わいをサクッと飲みきり、最後の1杯をお願いしました。
山椒の若芽はこれまたオーナーの家の庭で取れたもの。
それを同じ木から作ったすりこぎを使って、小さなすり鉢で細かくしたものを使います。
そんなアイディアも彼らしいひと工夫です。
シェイカーに牛乳を入れて軽くステアしたところに、ジンを加えて香りを出した山椒を入れ、シェイカーを振り、よく濾して氷で冷えたタンブラーへ。
最後に山椒の葉を添えたら出来上がりです。
このジンフィズ、写真を見てもらうとわかるかもしれないのですが、2層になっています。
上のクリーミィな層と、下のさっぱりとした層。
口当たりはふわりとやさしく、けれどさらりと喉を通っていきます。
思わず「おいしい……」とため息を漏らしてしまいました。
クリームを感じる上の層から、山椒が香るさらりとした下の層がすべて口の中に入ったところで、ひとくちひとくちが完結するカクテルになっているのです。
上にあしらわれた山椒の葉もまた、そのさわやかな香りをカクテルに纏わせ、最初のひとくちから最後の1滴まで、極上の時間を紡ぎ出してくれる1杯でした。
そのおいしさがどのようなものかといえば、チープな例えで申し訳ないけれど、帰りに週末の用事を済ませるために買い物をしにコンビニに寄ったものの、余分なお酒はおろか、棚に並んだスイーツにさえ触手が動かず、必要なものだけを購入して、この街で過ごす残り少ない夜の空気感を味わって帰路につくほどでした。
あのカクテルのあとに、何も口に入れたくなかったのです。
この時期、山椒を使ったカクテルを出す店は多くなりました。
それはリカルの鹿山さんの影響だろうとオーナーはいいます。
なかなか「これ!」と思うものがない中で、今日の1杯は完璧な1杯で、グラスの中に短い初夏という季節が閉じ込められたような、そんな1杯でした。
飲みながら「あと3回位飲みたかったな」と賛辞を述べたものの、帰り道に「いや、あれは1杯だからいいのだ」と思い直しました。
何度も同じ初夏が訪れることはないように、1度きりでいいと思ったのです。
1年に1度の美しい一期一会を味わうのにふさわしいカクテルでした。
今月いっぱいで私はこの街を出る予定です。
引っ越すのは少し都心から離れた駅ですが、同じ沿線を選びました。
その駅には大きな神社がある以外はこれといったお店もなく、部屋が広々としていて友達を招くことができるというのが大きな理由でした。
でも、あの「ひなにも稀なオーセンティックバー」とは離れ難かった。
きっと近くで仕事や用事がある日には、途中下車してまたあの店に寄ることでしょう。
金柑のジントニックしかり、この山椒の會舘フィズしかり。
もちろん、シングルモルトも揃っていて、マニア垂涎のオールドボトルも手頃に飲めるのが嬉しい店でもあります。
また夏が近づく頃、あの味を求めて立ち寄ることでしょう。
阿部さん、最高の初夏をありがとう。
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