無駄だけれど好きなものに囲まれて暮らすということ
食周りの仕事をずっとしてきたこともあって、食器も含め、食まわりの道具がとても多い部屋に住んでいます。
ひとり暮らしなので6畳の居室に6畳のダイニングキッチンという間取りの部屋に住んでいるのですが、食器と調理家電がたくさんあるので、居室を圧迫していたりして、時々、ミニマルな生活を目指し始めた人の話を聞いたりすると「そうよね、そうなのよね、でもね」となります。
友達でガジェットやフィギュアなどを集めている、いわゆる「コレクター」の人の話を見聞きする範囲だと、自分はコレクター気質ではないのですが、食周りに関するものについては、何らかのリミッターが外れてしまっているようです。
2脚でいいか、5脚セットか
もう食器棚がパンパンなので、あんまり買わないように気をつけているんですが、それでも食器が欲しくて買ってしまうことが時々あります。
食器を買う時に気にするのは、置き場所もそうですが、何脚買うか、ということが最大の悩みになることが多いです。
みなさんは食器って何脚(あるいは何枚)購入しているのかなとふと思うのですが、私の場合、マグカップやお茶碗などのパーソナルな食器は1脚でもいいんですが、それ以外は断然5脚セット派です。
「いや、あなたひとり暮らしでしょうよ?!」と自分で自分にツッコミを入れてしまうことが間々あるくらいに、まず5脚買うことを考えてしまいます。
最近は置く場所を考えて、2脚(あるいは2枚)で我慢したりするのですが、毎回2という数字を選んでからしばらく悩みます。
残りの3脚が無駄であったとしても、人を呼ぶようになったら必要になると考える癖がついてしまっていますね。
ちなみに、テーブルコーディネートの師匠は、年に1度海外に出かけると、ウェッジウッドなどのブランド食器の新作をチェックして、フルセットで購入し、自宅の食器部屋にストックしている人だったので「食器を使うことがあったら言ってね、貸すわよー」とよく言われていました。
お家にお茶会に呼ばれて行くと、どえらいアンテイークのティーセットが出てきたりして、クラクラしてしまうことがありましたっけ。
ひとり暮らしの自分には到底及ばない世界ではあるので、そこを参考にするのは無理なのですが、それでも食器を購入するときの基本の数字ということもあるので、きっと同じ悩みを持つ人は多いんじゃないかなと思ったりもしています。
使うほうが楽か、アナログな方法が楽か
最近自分でも「これ本当に使わないよな」と思いながらも、捨てられないのが調理家電の類です。
フードプロセッサーにミキサー、ホームベーカリー、たこ焼き器のついたホットプレートなど、出番の少ない調理家電はそのいい例で、持っていても年に1度出番があるかどうかと考えると、なかなか悩ましいものがあります。
フードプロセッサーなどは特に、使うほうが楽なのか、手作業が楽なのか考えて、使うときも逡巡することが多いことを考えると、いっそのこと処分してしまえばいいのではと思ったりもします。
ひとりたこパー、最近はしないよなとか、みじん切りの香味野菜、最近使うような料理していないな、とか、いろいろ考えてしまうのですが、その「いざという時」のために持っていて、時が来ると満を持して登場する、みたいな感じになっています。
すでにエスプレッソマシンやホットサンドメーカーは処分したのですが、エスプレッソマシンはやっぱりあるといいなと思っていて、また新しいものを買うかどうか、買うならどんなものにするか、時々考えていたりします。
調理家電はこの、買う前のいろいろ選ぶのに迷っている時が一番楽しいですよね。
他に欲しい調理家電はノンフライヤーかなあ。
置く場所を作るとかそんなことを考えながら、ウズウズしていたりする自分がいます。
無駄を所有するという豊かさ
無駄なものがいろいろあるというと、昔テレビで見たアメリカの家庭のキッチンを思い出します。
そんなもの手でやればいいしいらないでしょう、みたいな、いろんな電動の道具があって、それが当たり前の空気感があるというか。
日本よりキッチンもどーんと広々しているので、いくらでも道具が置けるというのもあるのでしょうが、電動缶開け器とか、リンゴの皮むき器とか、もうどうでもいいような道具がすごくたくさんあるのが印象に残っています。
昔はそうした無駄なものを持つことが、豊かさの象徴でもあったのかも知れないし、そうしたものはいつか必要としなくなり、忘れ去られていくのかなとも思います。
無駄ってなんだろうと考えた時、ただ単に必要のないものであったり、いつか必要のなくなる一見贅沢なものといったことが思い浮かびますが、無駄がないことはとてもストイックな美しさがあるように見えて、それでいてしんどいことだなあと思ったりもするのです。
筋トレでめちゃくちゃ追い込んで絞った贅肉のない体や、ミニマルで物が置かれていないシンプルな部屋は、ぱっと見た時に美しいし、その努力は讃えられるべきなのかもしれないけれど、自分はそんなにストイックになれないというのがその大きな要因かもしれません。
積まれたままになっている少しの本や、着るチャンスがないかわいいパーティー向きの洋服、色味の強いコスメ、しまったままの大きなスーツケース、見る機会を失っているブルーレイ、誰かが使ってくれるはずの食器。
そうした「少しの無駄」は、身の回りの至るところにあって、なかなかなくせないものでもあったりします。
ストイックに削っていけない自分を叱りながらも、ちょっとだけだから許してよ、と誰にともなく謝ってしまうのです。
好きなものは無駄なものか
私が好きな食器やレシピ本、大好きなミュージシャンのCDやDVDは無駄かどうかを考えた時、それは必要なものだし、無駄だと言われたら必要悪だと言い返すかも知れません。
少しの無駄が自分に心のゆとりをくれるように、好きなものを買ってそこからインプットする情報は、自分を豊かにしてくれるからに他ならないからです。
食器が持つデザインから情報を読み解いたり、レシピ本で文化を学んだり、CDやDVDは感受性を刺激してくれる。
インプットすることはアウトプットをするために必要なことでもあり、それはどんな仕事をしている人にも重要なことだと私は思っていたりします。
じゃあ、本当の無駄って何かなと考えると、食べずに無駄にしちゃう食材とか、過剰包装になっている通販のパッケージとか、そういうものかなと。
そこで行き着くのがエコなのかもしれないけれど、超絶エコじゃない生活をしている自分はあんまりそういうこといえないなあと思ってしまいます。
自分が楽をするために、ペットボトルのお茶やパック惣菜すごく使うから、プラスチックごみが多くなりがち。
身の回りのプラスチック製品を減らす努力をまずしないことにはと思うけれど、なかなかハードルが高いなあと感じたりもします。
本当の無駄を減らすための努力は少しずつ出来る範囲で、が大事かもしれません。
他人が見たら無駄に見えるものでも、それはその人にとって大切なものだったりすることはよくあることです。
だから、あまりそうしたことを断じることはしたくないなといつも思います。
自分に少しだけ甘くすることで、少しだけ生きやすく、ちょっぴり心豊かに。
それは誰もが同じことなのだということを、常に忘れずにいたいなと思います。
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