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『夢』はなくても

私の夢は、「アイドルになること」だった。

といっても、実現するためになにか努力したわけではない。
ただ、アイドルに憧れ、踊ることが好きで、音楽が身近にあった私は、ただ "何となく" アイドルになりたい、そんなふうに思っていたのだ。

だが、次第にその夢は叶えるものではないのだと周りの反応を見て思うようになった。
多分その頃から、「夢を見つけること」が私の夢になった。

私がアイドルになりたいと思うようになったきっかけは、とある男性アイドルグループの存在だ。CDを集めたり、友人とコピーダンスをして楽しんだ。それを契機に、K-POPグループにハマり、それからさらにまた別の男性アイドルグループに次第に心を奪われるようになった。

こうして学生時代はいつの間にか過ぎていき、大学受験について考えなければならないときがきていた。

これまでに頭に浮かんだ進路先のひとつが、映像関係の学部で学ぶことだ。アイドルを応援する中で触れてきた、MV(ミュージックビデオ)の製作について少し興味があったからだ。だが、私の家庭では、金銭的な面もあってか、国公立大学に行くことが暗黙の了解で、私立大学に行きたいとは言えなかった。まして、MVについて学べる学部に入りたいなんて言う勇気もなかった。

同様に、音楽について学ぶ大学や専門学校への進路も考えたが、学びたいことや興味があることを素直に言うことが恥ずかしく、親に相談することができなかった。その上、そこまでして入りたいのか、わざわざ大学で学びたいことなのか、ということも考え始めてしまい、それらの選択肢を残すことができなかった。

さらに別の選択肢として学問の面から考えた。当時、得意な科目、好きな科目は数学と物理。これを大学で深めた場合、就職先があるのか不安になり、そこまで好きなのかも分からなくなった。

こんなふうに考え続けてしまい、どの選択肢を選ぼうとしても不安と諦めの思いが尽きなかった。最終的に「やりたいことなんてない」という結論に至った。

結局、「やりたいことはない」とだけ親に伝えていた私は、親に勧められた大学・学部を受けた。
受けた学部は様々で、情報系(唯一、興味があるかもと伝えていた)の学部や、スポーツ健康系の学部、さらに、滑り止めになるような学校・学部には、「薬学部を受けて!」という母の思いから、薬学部も受験した。

受験した学校・学部のほとんどが父の探してきてくれたところで、薬学部に関してはたぶん母が受けて欲しいと言った大学だったと思う。

今思えば、よくもこんなに他人任せに進路を決めたなと、自分でも思う。それでも、当時の私は自分なりに考えていたつもりだった。他人任せにしてしまったのは、ある意味自暴自棄になっていたのだと思う。


受験の結果は散々だったが、とある大学の薬学部にだけ受かった。

薬学部なんて行きたくない!
受かったって行くもんか!

そう思いながら受験したはずなのに、いつの間にか、唯一受かった薬学部に行くかどうかを考え始めている自分がいた。

浪人をしたとしても目標もなく、頑張れないだろうなという気持ちと、「浪人なんてするお金はないから」という親からの言葉を真に受け、進学するしかないのだと思った。
ただみんなと同じように大学に行って、大学生活を送れたらいい。
浪人するのは少数派であることも知っていたし、その少数派に入る自信もなかった。
しかも、その頃もアイドルの応援を続けていたし、この先もアイドルを応援するなら、お金を稼げる仕事もいいのかもしれないと思い始めた。そして、大学在学中にやりたいことを探したらいい、そんな風にも思った。

「薬学部に入ろうかな」

そう言うと、父には「覚悟はあるのか」と言われたが、その時、覚悟というものが何であるかをよく分かっていなかった。もしかすると今でもよく分かっていないのかもしれない。

塾の先生からも「薬学部は大変だよ?」と言われたが、その大変さも想像がついていなかった。今ではその意味がわかったような気がする。



大学入学後は、初めこそ「ここで頑張るんだ」と少し前向きに(?!)なったが、周りの、薬剤師に対する思いに触れるうちに次第に私の居場所はここではないんだと思い始めた。

なりたい薬剤師像なんてものは全くと言っていいほど思い浮かばず、授業内で紙に「将来の薬剤師像」を書く時は適当にそれっぽいことを書いた。


将来について思い描けていないだけではなく、授業についていくのもだんだん辛くなっていった。

生物についての授業では、高校では一切触れていなかったせいか、ついていけず、徐々に薬について学ぶ授業が増えていったときも、ついていけなくなった。もちろん、分からないから面白くもなかった。

ただ、そんな中でも、共通の話題で盛り上がれる友だちができたり、いつも一緒に授業を受ける友だちがいたことは、学校生活を送る上で救いだったのかもしれない。

それでも、いつも心の中にモヤモヤしたものが漂い続けた。

時には、大学を辞めて受験し直すか、仮面浪人するか、もしくは就職を考えたこともあった。

しかし、どの進路を選ぼうとしてもいつも "なにか" が不安で突き進むことができなかった。今の生活を捨て去る勇気や踏み出す勇気がなかったのだと思う。
結局いつも、大学受験の時に考えて出した結論と同じ結論に至った。どれも本気になれそうもないし、やりたいことはないのだと。

そうやって日々を過ごしていたせいか、留年が決まってしまった。

毎日真面目に授業に出席し (授業中、眠気に勝てなかったことももちろんあるが) 、そこそこ試験勉強をしていたはずだったのに単位をいくつか落としてしまった。
本当を言うと、留年という言葉が見え隠れし始めた頃から、留年してしまえば大学をやめることができる、と思っていた節があった。そうなれば、私には、薬学で学ぶことは向いていないと、客観的に示してもえるような気がした。

だが、実際に留年しても、中々辞める決心がつかなかった。周りにも「今更辞めてどうするんだ」と止められた。

この辺りのことはあまり細かくは思い出せていない。自分の中で消化しきれていないせいかもしれない。
この頃は、留年してしまったこと以外にも色んなことが重なり、体調を崩すことも多くなった。ただ、最終的には、卒業はしなければいけないという思考に切り替わっていた。



留年期間は意外にも心の余裕ができ、順調に再履修科目を取得した。
自分のペースで勉強できたこと、アルバイトを始めたことで1週間の過ごし方(ペース)をつかむことができ、それと同時にアルバイトが息抜きになっていたのかもしれない。また、"薬学部に所属している自分" から離れていられる時間が増えたことも心の余裕に繋がっていたのだと思う。

だが、その心の余裕は、4年次になると次第になくなっていった。
夏休みから始まったCBT(病院・薬局実習に出るために必要な、最低限の知識が身についているかを確認する試験)の対策講座。ずっとその講座を受けていると気分転換も思うようにできなくなり、講座に出ること自体もだんだん苦しくなっていった。
自分で参考書を使って勉強している時も、自分の知識になっていない感覚があり、それもまた苦しかった。

薬剤師になりたいと思えないから、なにをモチベーションに頑張れば良いのかも分からなかった。そうなると、なんでこんなことをしているのだろうと思い始めた。

こんなに高い学費を払い、やりたくもないことに多くの時間を費やし、私の人生ってなんなんだろう、と。



大学受験や大学生活を過ごす中で気づいたことがある。
やりたいことを探すにも、"仮" でもいいからやってみたいことに挑戦しなければ、永遠にやりたいことには近づけないということだ。
挑戦もせずに、「やりたい」「やりたくない」はわからない。
「やりたいこと」は、急に降って湧いてこないのだ。
ましてや、嫌いなことや興味のないことにずっと縛られていては、「やりたいこと」には出会えないのではないか、と。

そう思い、就職活動では自分の興味がどこに向いているのかを大切にしながら動いた。

就職活動が本格的に始まる約2年前に就職活動の準備を始め、合同企業説明会やインターンシップにいくつか参加した。

興味のある企業があったとしても、理由はいつも「何となく」だった。それでも、とにかくインターンシップに参加し、なにか見えてくるものがあるかもしれないと期待した。

結局、就職活動を本格的に始めるまでに絶対にこれだ!というものは見つけられなかった。直前になって、とある就活サイトでみた先輩の情報から、自分に合っていて、ある程度興味をもてそうな業界をみつけ、その業界を中心に本エントリーした。

しかし、ここでもまた、いろんな壁にぶつかった。
エントリーシートをなんとか書き終え、提出したのはいいが、その後の面接でことごとく苦しい受け答えしか出来なかった。

「どうして薬学部なのにこの業界に?」「どうしてこの業界・会社に興味を持ったのか?」といった問いに上手く答えられなかった。

聞かれることはわかっていたが、準備の時点で上手く言語化できなかった。面接が通過しなかったのは準備不足という面もあるだろうが、そもそも興味なんてなかったのではないかという思考にまで至ってしまった。




今はまだ、今後についてなかなか決める事が出来ないでいる。

でも、私は「夢」を見つけられなくても、自分の"生きたい世界"、"過ごしたい生活" を一つ一つ掴めるように行動していけたらと思っている。

そのために、自分の好きなもの・ことに敏感な人でありたい。



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