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    楽園の暇 ― もんたん亭日乗


<その2>  母の日課


 その1で、娘の良縁を願う田舎の普通のおばさん、としてしか扱われていないことに草葉の陰できっと腹を立てているに違いないので、名誉回復も兼ねて今度は母のことを書く。
 昭和七年浅草生まれ、永六輔氏の兄と小学校で同級、が自慢。もともと書くことが好きな少女ではあったようだ。嫁した丸亀の家には、結婚当時から大学ノートを縦書きに使って書き溜めた日記が何十冊も残っている。日常の出来事を記した日記というよりは、自らの思いを自由に書き連ねた雑文記といった趣きだ。新聞や雑誌の切り抜きなども貼ってあり、中には「ひととき」みたいなタイトルで、こまっしゃくれた三歳の娘(この私)のことを書いて、地方紙の投稿欄に掲載された記事もあったりする。
 その娘は、後に大学の文学部を出て就職、二十五歳の時、あることがきっかけで作家になると両親に宣言し、会社勤めをしながら文芸誌の新人賞に応募を繰り返していたのだが、母はその頃から再び新聞投稿を始める。もっぱら「読者文芸欄」だ。その少し前、夫と娘と三人で旅した北欧旅行が発端だった。初めての海外旅行が楽しかったらしく、帰国後旅行記を書き上げ、自他共に認める達筆で清書し、持ち前の器用さで和綴の美しい冊子にして、何冊も増刷しては友人知人に配っていた。タイトルは「ふぃよるどをゆく」。思わぬ反響に気を良くして、そのこと自体を随筆にしたと言い、ちょっと添削してよ、と東京で暮らす作家を目指す娘に送ってきたのだった。

北欧旅行記「ふぃよるどをゆく」

 ふむふむ、どーれ、と読んでみるとこれがなかなかよく書けていて、それでも構成を少し変えたりして送り返した。するとその随筆が「読者随筆」の欄で入選してしまったんである。「あんたのおかげや」と報告してきた電話の声は弾んでいた。いやーそんなことないわ、内容が良かった、と母には言いながら、そうやそうや添削が良かったのだ、とその時は思っていた。以後も母は投稿を続け、いつの間にかその欄の常連になっていった。私に添削を頼むこともなくなった。
 数年経って、ついに彼女の作品は「年間最優秀賞」まで獲得してしまった。新聞紙上にデカデカと記事と写真が載り、選評には「ユーモラスで読ませる、語彙ごいが豊富」などとあって、この一年、毎月応募されたことも評価したい、とあった。
「すごいやーん」
 電話口で私はもちろん祝福した。
「一等賞ってなかなかとれんもんやで。すごいわ」
 そんな言葉をかけたが、胸中は複雑だったのだ。自分の母が、小さな地方紙の文芸欄ではあるけれども、文章で一等賞を取った。読書感想文だって私は一位を獲ったことはない。そして今、誰よりも一等賞が欲しいのは、この私ではないか。母の快挙は、もう娘のおかげなどではない。ユーモラスで語彙の豊富な文章を書き、毎月、作品を必ず一つ仕上げてきたのである。本当に情けないことだが、あの時、私は母に嫉妬していたと思う。

 その後も母の随筆は、新聞紙上で何度も活字になった。市の広報誌からエッセイの依頼まで来るようになる。還暦も過ぎたごく普通の専業主婦にとって、なんと喜ばしいことであろうか。書くことが好きな人なのだから尚更である。「また載った!」との電話が来るたび、娘の心はちりちりした。どうした、素直に喜んであげればいいじゃん。年老いた親の快挙を喜ばない娘なんている? そんな葛藤にさいなまれなかったといえば嘘になる。もちろんそれだけではないが、それからさる文芸誌の新人賞をもらうまでの数年間、苦しかった。
 一等賞を獲れた時はもちろん、母は父と一緒に大喜びしてくれた。その頃から母の投稿の回数は減っていき、そのうち掲載されることもなくなった。もしかして母の投稿は、子の幸福こそ自分の幸福と考える親ならではの応援、激励の発露だったのか。もっといえば挑発だったのか。子供のない私には分かり得ないことかもしれないが、親とはそういうものなのか。
 最近になってそんな思いがよぎったのは、私自身の日記を読み返すことがあって、すっかり忘れていたが、夢が実現できないでいる私に、父がこんなことを言っていたからだ。
「お母ちゃんは、寝る前に必ず何か一つ文章を書くことを毎日自分に課しとる。教育を受けてないコンプレックスがあるから、精一杯の努力をしとる。そんなお母ちゃんを僕は尊敬しとる。お母ちゃんに比べて、お前は十分な教育を受けて、ずっと恵まれた環境にあるんやから、そういうところは見習うたらええ」
 ん、待てよ。もしやこれもまた父による激励、もしくは挑発なのか。娘に奮起させるために、そもそも両親が共に仕組んだことなのか。老後は常に一緒に行動し、会話の絶えない、本当に仲のいい夫婦だったから。

 夜もかなり更けたころ、あらゆる家事を済ませた母が、老眼鏡を鼻にかけて日記に向かっていた姿を思い出す。時折うたた寝しつつも、一日最後の日課は必ずこなしていたのだった。毎日書くということ、そしてノートに貼られた新聞や雑誌の切り抜きもまた、彼女の知識や教養、人生を深めることに役立っていたのだろう。
 九年前の秋の日の早朝、母は家の布団の中で冷たくなっていた。前の晩まで日記をつけていた。スーパードライのミニサイズの空き缶が、洗いかごのそばにあった。そして不思議なことに、死後何日か経って気づいた台所のホーロー容器の中の糠床ぬかどこには、カビひとつ生えていなかった。ひと足先に他界した父の好物が糠漬けだった。糠床を毎朝かき混ぜることも、母にとって大切な朝の日課だったのだろう。

 母が遺した膨大な日記をまだ全部読めていない。彼女がいつか文章にしようと思っていたことがたくさん書かれているに違いない。もしかして娘の小説のネタに利用できるよう、書き溜めてくれていたりして。そうだとしたら母親の愛情の深さに涙してしまうかなあ。それともまた今度も嫉妬するのだろうか。いやこの雑文だって母に書かせてもらったようなもの。感謝しかないか。

*不定期(たぶん月1)掲載です。



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