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【エッセイ】知的探究とは何か

 日常、生活をしていて、問題が起きることがある。私なら、書く材料がなくなったという問題。文章を書きたい私にとっては問題である。そんなとき、そうならないためにはどうしたら良いかと考える。問題解決のための知的探究と言ってもいい。

 西洋哲学では古代ギリシアのプラトン以来、知的探究を、探究対象の<想起>として理解しようとする哲学的な伝統がある。例えば、良い文章を書くためにはどうしたら良いかと考えたときに、良い文章という対象を<思い出すこと>と捉えるのである。
 それは次のようなことに由来する。知的探究がすでにある真理・実在の発見であるはずだと求めていること。さらに、そうした真理・実在はすでにある意味で知られていたものであるはずだ、と思っていることである。
 プラトンは、例えばある幾何学的真理を探究し学ぶことは、白紙の心に何らかの信念の内容を入れることではなく、すでに主体というその人のうちに生まれつき保持されていた真の信念の内容を、論理的な根拠づけの過程を通して想起することである。つまり、幾何学的な真理の探究は、論理的に想い起こすというのである。だから探究は、すでにある真理を知識へと定着させる発見的手続きである。
 このときプラトンは、数学的な知識内容をすでにある真理のモデルとみなし、その真理性がすでにあることで経験に依存しない(すなわちアプリオリ)であることを、数学的な知識内容が人間の生まれる以前から与えられていることと理解しようとする。こうした理解は、ある種の知識が人間精神にすでに持っているという説の<生得観念>をめぐるデカルトやライプニッツらの近代哲学での議論の出発点となった。
 プラトンはその後、<等しさ>や<美それ自体>などの(事物の永遠で理想的な形・本質である)イデアこそすでにある真理そのものであり、人間の日常的で感覚的な知識は、すでに生まれ持ってそなわったイデアを<想起>することにほかならないという考えをとる(『パイドン』)。例えば、二つのものが<等しい>とする感覚的な判断は、その判断の根拠として<等しさ>というイデアを前提にし、引き合いに出しているというわけである。

 知的探究とは、<すでにあること>の想起であり、そのことの発見である。真理は、すでにあるという。つまり、すでにある真理に、人間がいかに氣づくか。それは、世の中から真理を水のようにすくい取るのが知的探究である。この考えによれば、知的創造もすでにあることを発見する作業になる。これは宝探しのように楽しい作業かもしれない。だから、良い文章を書くことは、勉強することで、天地自然にある世の中から、言葉を拾い集めて、いかにそれを料理するかと言えると思う。書く材料はすでに存在していて、自分が氣づいていないだけかもしれない。そう思った方が救いがあるのだろう。



【参考図書】
廣松渉(他)編『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、1998年

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