死という大きな概念と繋がっている

 その人達は、山の中の静かな街の中で繭人形を作っているんだそうだ。

 お店を兼ねた工房で、日がな一日人形を作り、
そして訪れたお客さんをお茶とお菓子でもてなすらしい。

 お昼は交代で昼食を摂り、
秋が深まると近くのお寺の紅葉はどうかしらと呟き合い、
年末が近くなると次の年の干支の繭人形作りに忙しくなるんだそうだ。


 繭人形の他にもね、と見せてくれたのは、折り紙。

 折り紙を、幅2mm、長さ1cmほどに小さく切って、折って、折って、小さくまとまったそれを、数百個も合わせて作品を作るんだそうだ。
 飾られているのはフクロウやかえるのお人形。

 72歳の、ごつごつした太い指で、小さな小さな折り紙を折っているんだそうだ。


 この人達は、繭を切って絵を描いたり、黙々と小さな折り紙を折ったり、そうやって1日を過ごしているんだろうか。

 きっとどんな生活にも、悲しい事や大変なことはあるんだろうけれど。
 いただいた豆菓子を食べながら、その人達の淡々とした時間の流れに思いを馳せる。



  工房の近く、紅葉の時期に紅く色づくそのお寺は、かつて風葬の地だったそうだ。

 だからこの辺りは、いのちのはかなさ、人の世のむなしさ、そして生と死が移り変わりつつ循環するといった意味の地名が付けられている。


 命は儚く、生と死は繰り返す。
 加速する社会と極度の緊張のなかで手放しかけていたその概念を、この街に来てまた思い出す。


 わたしたちは生きていることに必死で、死ぬことを忘れてしまう。

 わたしたちの生が零れ落ちるとき。
 それはしばらくは現れないと思われている、けれど、100年後かもしれないし、明日かもしれないし、次の瞬間かもしれない。
 わたしたちがどうしようもなく生きているその傍に死が寄り添っている。

 生が無限に広がる空を教えてくれるように、わたしたちは大地に根を張って、常に死と繋がっている。


 わたしたちが生と死の大きなゆりかごの中に抱かれているのなら、どうして生きることだけに必死になることがあるだろう。

 黙々と紙を折るように、来訪客をお茶菓子とおしゃべりでもてなすように、ただ淡々と時間を過ごす。
 絶望も卑屈さもなく、妙な高揚や損得もない。焦ることもない。ただ巡っていく。



 工房を出発しようとしたところで、沢山の折り紙と繭人形のお土産を貰ってしまう。
 お金という形でお礼がしたかったのに、貰ってばかりだ。

 帰り際に流行りのエンターテイメントの話なんかをして、人の世に依存せずとも拒まない姿勢がとてもいいなと思った。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!