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若松英輔さんに会いに行く その人がその人として今ここにいるかけがえのなさ
若松英輔さんのトークイベント&サイン会「自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと 若松英輔さんにきいてみよう」に行ってきました。
若松英輔さんのトークイベント&サイン会に行ってきました!
— 織子 (@oriko005) May 25, 2024
大事なお話沢山聞いてきて今はうまく言葉にできないなぁ
今野書店、地域に根ざしたみんなの本屋さんって感じで素敵だった pic.twitter.com/SwvoHiaMGF
若松さん、悩み相談だけじゃなく「普段どんな音楽聞いてますか」「夜の自由時間の過ごし方は」「好きな食べ物は」とか普通のこと聞いてみたいな
— 織子 (@oriko005) May 25, 2024
若松さんから「本を読むのはほどほどでいいからもっと書いてこ」「メモするならその人が語らなかったことと自分が感じた意味を書いておきな」とのお言葉を頂いたので、トークイベントの中で自分が感じたことを中心に、ネタバレにならないように書いていこうと思います。
下記の目次は全てわたしがトークショーを聞いて感じた言葉たちなので、若松さんが実際におっしゃっていないものもあります。
若松さん
わたしが若松さんを知ったのは「こころの時代」の「それでも生きる 旧約聖書・コヘレトの言葉 」がきっかけだったので、大きなテーマについて静かに語る若松さんばかりを見てきたわけですが、
初めて見た若松さんは意外とポップなTシャツを着ていて、テンポよく喋って時には冗談も飛ばすような、おしゃべり好きな雰囲気の方でした。
わたしにとって若松さんの言葉はあまりにも命を照らす光であったから、自分の中で勝手に神格化してしまっていて、若松さんも怒ったり不安になったりするのかなと思っていたけれど、私達と同じ場所に生きている同じ人間なんだなぁと親しみを覚えました。
最初に5分くらい冒頭のお話があってからはひたすら事前質問を読み上げて答えてというなかなかストイックなイベントで面白かった。
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ。/金子みすゞ
(スマン、金子みすゞそんな好きじゃないって言ってたけどこの詩は好きだわ)
仕事に意味が見いだせずつらくなってしまったという質問に対して、「自分が感じられないことと存在していないことはイコールではない」とのこと。
このお話を聞いて金子みすゞ「星とたんぽぽ」の「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」を思い出しました。
若松さんの著作でも度々「生きている死者」という言葉が出てくるけれど、姿が見えなかったり違う位相にいたりして自分には上手く認識できなかったとしても、この世にはありとあらゆる尊いものがあるんじゃないかと思うことがあります。
自分が感じられる世界はあくまで自分を通して見た1つの世界であって、他の人を通した世界にはまた別のものが映っていて、違った喜びや悲しみ、命がそこにあるのかもしれない。
わたしには見えなくても、悲しみを背負って泣いている誰かを思っていた。
矛盾した2つの気持ちを持っている
上記の仕事に意味が見いだせないという質問への回答の続きとして、「わたしたちはそもそも意味があるから生きていて、でもそれを掴み切れずに生きている。生きて意味を作ろうとするのではなく、そもそも意味があるから生きている。」とのこと。
生きて意味を作っていくことが当然だと思っていて、それ以外の道が見えなかったところで、実は意味はもうここにあるんだよと別の脇道に導かれる。
閉じた壁に風穴を開けるような感覚がある。
こういう、価値観がぐるんとコペルニクス的転回をするような経験って大切ですよね。
価値観のコペルニクス的転回に関連して。
やはり多かった「言葉にしたいのにできない」という質問に対する、「語ったことよりも、その人が語りえなかったことを大切にして」「書きえない、言葉になりえないコトバを抱きしめる」というお話。
若松さんは文筆家という職業柄きっと「書く」ということが中心にあるんだろうと思うけれど、同時に「書けない」「書きえない」の尊さも抱きしめている。
「書く」と「書けない」という、一見矛盾して見える考えを内在させるというのはとても大切なことのように感じています。
内なる矛盾があることで、1つだけじゃない沢山の世界を感じられる、沢山の脇道から生きていく道を見つけていける。
中一の時の担任の先生が「たかが部活、されど部活」って言ってたのをよく覚えているのですが、この矛盾する2つの感覚を持つことはとても大切なんだなと思う。
— 氷の心臓 (@heart_ice003) May 19, 2024
「所詮は遊び、だが遊びは本気でないとつまらない」もそう。
誰かの思いもよらない心の扉を開くことができるのが音楽のすごいところ
「言葉にできない思いを持って書くことで、誰かが読みながら受け取ってくれることがある」というお話から、わたしの歌の先生が言っていた「誰かの心の扉を思いがける開くことがあるのが音楽のすごいところ」という言葉を思い出しました。
言葉って音楽みたいだね。
きっと音楽もまたコトバなのでしょうね。
わからなくてもいい
質問回答の中で出てきた「苦しみは他の誰かにはわかってもらえない、だから自分の苦難を自分で抱きしめる」というお話。
わたしはいま生活の次元(仕事や社会生活)においていくつか問題を抱えていて(まあ問題のない人なんていないよね)、それなりに心の揺れ動きや苦しみがあるわけなんですが、
この「苦しみは誰にもわかってもらえない」が心にズンとのしかかりました。
そうなんですよね。
今のわたしは苦難を抱きしめてあげられるような心を持てるかわからないけれど、わからないながらもこうして文章を書いています。
あと、トークショー全体で受け取ったメッセージとして、「謎は深まっていく」「わからなくてもいい」ということ。
上記の生活の次元での悩みの中で、なんでもかんでも分からないと言ってないでもっと分かろうとしなければ、もっと早く行動しなければと自分を鼓舞していたけれど、そんなに思いつめなくてもいいのかなと思いました。
勿論生活の次元では行動力や素早い理解力はとても大切になるし、生活の次元での命を全うすることもとても大切なんだけど、
生活の次元、ましてやそのうちの仕事なんて自分の人生の扉の中の1つでしかないこと、何をやるにも時季があること(今は出来なくてもいつかできる時が来るかもしれない)を心に留めて、ちょっと気楽さをもって生きていこうと思いました。
違う道をたどりながらひとつの同じ場所へ辿り着く
同じく「書くことに憧れはあるけど書けない」という質問についての、「憧れは文字の通り幼い心に抱くもの、人生が始まったら憧れは手放していこう」というお話。
これ、BLEACHの藍染惣右介の「憧れは理解から最も遠い感情だよ」と同じだなと思って思わずメモしました。
一見全く別の場所にいる2つのものが、違う道順で同じところへ辿り着き、違う言葉で同じコトバを語ることって意外とよく起こっているように思う。
…それにしても、このBLEACHの「憧れは理解から最も遠い感情だよ」、おそらくBLEACH未読の人が引用していることも多く、これを書いた久保帯人先生の偉大さをひしひし感じます。
「まぁ僕は人のことは知りませんけど」
これは若松さんが実際に言った言葉。
わたしたちの生活の悩みってあまりにも具体的過ぎて、関係者か専門家でないと実用的な解決方法はわからないものですよね。
翻って考えると、背中を押すきっかけがあれば生活の次元を渡っていけるだけの力はわたしたちの中に備わっているのかもしれない。
別の場面で「上手い文章を書くなんて他の人でもできるんだからそっちにまかせておいて、あなたはあなただからできることをやりなさい」とも言ってて、この割り切りの良さと任せるところは任せる姿勢がなんか面白かった。
コトバは言葉を脱ぎ捨てる
読んだ本のことを覚えていられないという質問に対する「忘れたということは、言葉が言語を離れたコトバとなって無意識にしみこんでいったということだからそれで大丈夫」というお話。
例えば「人生には意味がある」という人と「意味なんてない」という人がいて、一見正反対のことを言っているように見えてよく聞くと同じコトバを語っていた、ということはよくあるように思います。
「意味」「頑張る」「わかる」とかは言葉の定義があいまいで人によって違うよね。
でもSNSだと果たしてどういうコトバが語られているのかまで考えず、単に言葉が違うというだけで論争に発展してしまう場面をしばしば目にする。
言葉って意外と不自由なんですよね。
だから、コトバが言葉を脱ぎ捨ててどんな形にもなれるイメージの世界へ昇華されるってとても大切なのかもしれません。
それをするのがわたしの魂の仕事だと思ったの
文章を書きたいのに書けないという質問に対する「I wantではなくI need」というお話。
これはさっきの話と関連してコトバを説明する言葉を選ぶのが難しいんだけど、「これがやりたい」ではなく「寧ろやらないという未来はありえない」「これをやらなくてどうする」くらいの感覚というか…。
なにか大切なことをしている人は、それがやりたいとか好きとかもはやそんな次元ではなく、「それをするのがわたしの魂の仕事」というくらいの内なる必然を感じているからそれを続けているんですよね。
そういった「内なる必然に導かれた魂の仕事」は、もはや頑張るとか努力とかそういうベクトルではなく、でもそれなりのことをしないといけないのだと。
適職診断で自分を知ったつもりになってはいけない
「○○について知る」と「○○を知る」は違うというお話。
「ついて知る」は○○に関する語りえること、客観的事実、「○○を知る」は客観的事実を掬い取った時に残るコトバたち。
仕事のような属人化してはいけない場面では「ついて知る」もとても大切なのですが、やはりその人の魂とかそういったものに触れるには形になりえないコトバに触れる必要がある。
「あなたがあなたとしてここにいることのかけがえのなさ」はやはり、形にならないコトバたちに宿っているように思うのです。
「そもそも」
仕事で新しいことに挑戦するための勇気が欲しいという質問に対する「そもそもあなたは勇気とはどういうことだと思ってる?」というお話。
これ実はわたしの質問でした。
ちなみにわたしとしては「怖い敵と戦っていくための恐怖に打ち勝つ強さ」を勇気と定義していたよ。
若松さんによると、勇気とは「どんなに不十分であっても自分を受け入れること」とのこと。
また「本当の困難に1人静かに立ち向かうこと」とも仰っており、だとすると今感じている恐怖とは本当の困難であろうか、いやそんなことはないな、そもそもそんな恐れることだろうか、というのが今の気持ちです。
とはいえわたしは生活の次元はやまり苦しく、言葉をもらった今この瞬間から解き放たれたわけではないのだけど、もうこの言葉についてちゃんと考えていかないといけないな、と思っています。
勇気とはなんでしょうか。
また、「勇気はもうすでにあなたの中にあって、現れる時を待っている」とのこと。
これも価値観のコペルニクス的転回ですね。勇気は手に入れるものではなく、既にあることに気づいていくものなのだと。
勇気とはどういうものかまだお腹まで落ちてこないけれど、
何か困難にぶつかった時、わたしたちはその困難を倒すような強い武器を求めるけれど、その具体的な事象から一歩引いて、果たしてその武器は本当に必要か?そもそもその困難は倒すべき敵か?倒さないといけないものか?自分は何がやりたいのか?と考えることは大切なのかなと思いました。
強い武器と厚い鎧だけが世を渡る道具ではないはずだから。
きみが今ここにいるかけがえのなさ
「言葉は寡黙で、存在こそ多くを語る」というコペルニクス的転回のお話。
去年の秋から実家で猫を飼い始めました。うちの縁側で生まれ、その後つかず離れずだったハチワレ猫を保護したのです。
この子が愛おしいなんて言葉じゃ足りないくらい愛おしくて、何がそんなに可愛いのかというと、
あいさつ代わりにパタンと倒れたり、ネズミのついた紐のおもちゃに目をギラギラさせて飛びついてきたり、眠い時は膝の上・ベットの中でくっついてきて体重をかけてきて、眠っているような規則正しい呼吸のリズム、熱心な毛づくろいでふわふわの毛、お気に入りのクッションの上でもみもみする前足、ぬいぐるみみたいなお手々、ピンク色の肉球、プラスチックみたいな爪、その存在すべてが、いまここにある命のかけがえのなさ、偶然交わった命と命の奇跡を体現しているようなのです。
ただ命がそこにあるだけで発しているコトバと受け取れるコトバ。
悲しみは避けられない、けれど…
若松さんの言葉はまさに人生の次元に関するコトバたちで、若松さんの導きでわたしたちは人生の喜びを見出そうとしているけれど、何度か寝て起きるとまた月曜日がやってきて…。
人生は生活上の問題を解決する実用的手段ではないんですよね。
人生が充足しても生活上の問題はなにも変わらない。
だからこれだけ充足した時間を過ごしても「また月曜日が来たらどうやって生きていけばいいんだろう」という気持ちはぬぐえなくて。
これに関してはまだ答えが出てないのですが、最近は「悲しみは避けられない、けれど…」という言葉がこころに浮かんでいます。
「けれど…」の先はわからない、悲しみは避けられない、
でも、悲しみだけじゃない、悲しいけれどその先にある何か救いのようなものは確かに見出していけるんじゃないかと感じています。
悲しみの先にある救いのコトバたち。
はかりしれない命に出会う
阿弥陀如来の「弥陀(みだ)」は、何かを測るという意味らしいですね。メートルの語源らしい。
そこに「阿」がついて打ち消しになって、「阿弥陀」とは計測したり比較したりすることのできないもの、はかりしれない命とい意味なんだそうです。確か法然院でそんな説法を聞いたような。
あまり目に見えるものだけで判断しないように、自分の感覚に固執しないように、自分自身と浅いところで出会いがちだけどもっと深いところに触れられるといいよね、というお話を聞いて、このはかりしれない命の話を思い出しました。
生活の次元の中でわたしたちは日々ジャッジされ、比較され、ともすれば固有のかけがえのなさを見失いがちだけれど、わたしたちには本来比較とかジャッジとかそんな次元ではない、はかりしれない内なるコトバがあるのかもしれません。
ちなみに、確かな明日がわからない時にもう一日だけ生きてみようと思わせてくれたコトバたち、そんな言葉をくれたのが、上記のはかりしれない命の話をしてくれた法然院の貫主の梶田真章さん、そして若松英輔さんでして、わたしは生きているうちにこの人達にちゃんと感謝を伝えたいとずっと思っておりました。
わたしは昨年まで関西に住んでいたので度々法然院のある東山に行くことが出来て、その中で梶田さんにはつたない言葉ではありますがお礼を言うことができました。
そして今回の若松さん。
サイン会の中で少しお話したところ、わたしは若松さんの発した言葉のおかげで生きているのではなく、言葉をきっかけに未来を照らすコトバを自分の中に見つけたからなのだ、とのこと。
自分を救うコトバはいつも自分の中にあるのだと。
未来の自分が呼んでいるから今わたしは手紙を書くのだと。
そんなん言われたら泣いてしまうよ。
おわりに
ということで本当にかけがえのない時間を過ごせたトークショーでした。
沢山お話が聞けて、なにより実際にお会いできてよかったです。
ここまで読んでくれたあなたがだいすき!