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それぞれの10年

その日、私は表参道にある甲状腺専門病院の待合室にいた。
未だかつて経験したことのない激しい揺れ。
心臓が激しく波打ち、その瞬間私は死ぬかもしれない、と思った。
愛する子供たちに会えないまま私はここで死ぬのかと、あの瞬間、私は本気でそう思ったのだ。
あの時間、同じように家族を思い、命果てた人がどれほどいたのだろう。
家族の名前を心で叫び、命尽きる寸前まで奇跡を信じた人がどれほどいたのだろう。
一瞬で全てを奪い取った自然の業と、前代未聞の原発事故は幼い子供を持つ私の心を蝕んだ。
空気を吸うことさえ憚られる毎日。何を信じて生きていけばいいのか、疑心暗鬼の日々、社会は少しづつ日常を取り戻したかのように見えたけれど、私の心は疲弊しきっていた。
3月末にたまたまオーストラリア行きの計画がありチケットを取っていたので、子供二人を連れて私はオーストラリアへ向かった。
着いてしばらくすると、テレビやインターネットに触れないからか、私の精神状態もかなり落ち着いた。
何の気兼ねもなく、子供を外で遊ばせられることが幸せだった。
2週間後に帰国をしたが、その時、私はオーストラリアへ移住する決意を固めていた。

震災の一年前、2010年に私はバセドウ病の治療でアイソトープ(放射性ヨードを摂取し甲状腺機能を破壊する治療)を受けていた。
妊娠中にバセドウ病が発覚し、出産後に悪化。
投薬治療を開始直後、副作用である顆粒球減少症になり緊急入院を余儀なくされ、のちアイソトープ治療を受ける運びとなったのだ。
自分の体調は落ち着いてきたものの数値はまだ完全に落ち着いておらず、精神的な負担を考えても、オーストラリアでの子育てが自分にとって一番ベストな選択だと思ったからだった。
夫は私の持病のこともあり、子供を連れての移住に強くは反対しなかった。
その時は長期にわたる移住になるなんて夢にも思っていなかったのだろう。

私の期待とは裏腹に移住して1年近く、心が落ち着かない日々が続いた。
日本から逃げてきたという罪悪感。
父親に会いたいと泣く2歳の息子。日本での学生生活を望んでいた娘。
私の選択が果たして正しいものだったのか、迷いもあった。
否が応にも不安やトラウマと向き合わざるを得ない日々が続いた。
私が震災を経験してあれほどの恐怖を感じたのは何故なんだろう、と。
その理由を深く探って行くと、いつも私の脳裏に蘇るのは妹の姿だった。
私は3つ違いの妹を病気で失くしている。当時、妹は3歳だった。
いつも私の後ろをくっついて歩く、上手にお話ができる可愛い盛りの妹だった。
ある日の夜、妹が引きつけを起こして病院へ運ばれた時、私は隣の部屋のベッドの中にいた。
襖越しに聞こえてくる、慌てふためいて、救急車!と叫ぶ母親の声に、私は不安でいっぱいになった。
どうしたの?そう声をかけたくて、でも叱られるのが恐くて、ただ静かに声を潜めていた。
その数日後、妹は布団に乗せられて自宅に戻ってきた。
私は妹が運ばれた後の数日間、病院へ連れて行ってもらえず、お別れもできず、いきなり亡骸と対面することになったのだった。
数日前まで遊んでいた妹がうんともすんとも言わなくなった状態で家に戻り、嘆き悲しむ両親の姿を目の当たりにした私の心は、深く、深く傷ついた。
私は人の死を十分に理解できる年齢であったが、誰一人として私の心のケアをしてくれた大人はいなかった。
その後何年も、妹の話になると母親の涙は止まることを知らず、その姿を見るたびに、私は密かに罪悪感を感じるようになった。私が死ねば良かったのかもしれない、と。
人の死は、残されたものの心を悲しみのどん底へと突き落とす。そしてその悲しみと痛みは滴る血が少しずつしみを広げていくように周りに影響を及ぼしていくのだということを幼心に悟った。

オーストラリアの生活が2年を過ぎた頃、私はこの地で永住したいという激しい思いに駆られていた。
そして、永住権を取得するべく飲食ビジネスを始めることになるのである。
2013年にビジネスを買い取り、結果無事に永住権を取ることができたが、
その間の苦労は筆舌に尽くし難いものがあった。
夫は2013年に会社を辞めて渡豪してくれ、一緒に飲食店を切り盛りしてくれた。
しかし、夫との諍いが長く続き家庭内は冷め切っていた。
私が仕事で笑顔を作れば作るほど、夫の機嫌は悪くなり、家の中の笑顔は皆無となっていった。
夫のこの10年は忍耐と苦悩の10年だったに違いない。

満7年、文字通り、血と汗と涙の結晶でもあるビジネスも2021年に全てを終えることとなった。
私が子供たちと共にオーストラリアに来て10年目。
日本を旅立ち、新たな土地で初めての仕事に挑戦して、必死に頑張ってきた10年間。
あの日、震災がなければ私は今ここにいなかっただろう。
震災は私の生き方も、考え方も丸ごと変えてしまった。
2011年3月11日、表参道から6時間かけて横浜の自宅まで戻り、家族全員が揃った時の安堵感、そしてブラウン管に流れる悲しみの光景を見て、溢れて止まることない涙を流したあの時間。
あの時、私は自分が持っている物質は全て今世限りの借り物であると思い知った。
どんなに大切にしていても、どんな身を砕いて守ろうとしても、全ては一瞬で消えてしまう。
自分の体までも・・・。
でも唯一残るのは『おもい』なのではないか、、そう思ったのだ。
生きてきた証、それは想い。
震災で亡くなった方のことを私は直接には誰一人として知らない。
しかし、一人一人の想いは私の心に深く深く届いている気がしている。
『生きるとは』
魂がこの世を去る瞬間まで生き抜くこと。
私は自分の人生を生き抜きたい、、、そう強く思いだしたのだ。

自分の住んでいる家、持っているもの、物質的な豊かさ、そういうもので自分の幸せをはかっていた時があった。
小さな時に旅立った妹のことは、長い間、記憶の端の方へ追いやっていた。
あの日のあの光景が、そして、オーストラリアの大自然が、私にいろんな感情を思い出させてくれたのだと思う。

今の私の夢、それは震災で家族を失った子供達がオーストラリアへ来ることができるサポートができるような活動をすること。
生きるとはいつも夢と希望、目標を持って少しづつでも前に進むことだと思うから。。

経験を経て、私は強くなった。
そしてその分、寛容になれた気がする。
あれから10年。
お店を辞めるにあたって、全てはゴミになった。
汗と涙が染み込んだ物質は全て、文字通り、全て瓦礫となった。
山積みになった瓦礫の中に、私の想いはない。
しかし、私の心の中には、この10年間、積み上げられた様々な想いや感情が山積みとなっている。
今はそれを少しづつ、少しずつ、丁寧に確認していこうと思う。。。

※2022年に別のアカウントでnoteに書いたものをアカウント統合をしたため、こちらに移動させました。



#それぞれの10年

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