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愛(あい)を戴きつつ、恩(をん)を返して生きませんか 

愛(あい)で始まり「恩(をん)」で終わる日本語



日本語はひらがなの通り、「愛(あい)」で始まり「恩(をん)」で終わる言葉だと言われています。

曰く、ひとが幸せに生きていくためには、「あ・い・う・え・お」が大切だと言い伝えられているのです。

ここで言う「あ」は愛であり、「い」は命、「う」は運、「え」は縁、「お」は恩であるとされています。

つまり、日本語の中には、人といのちとのめぐり逢いや縁(えにし、えん)の中に人生の意味やしあわせを観ていこうとする志向性があるというのです。

愛がなければ命もなく、命なくして運というものもない。

運がなければ縁もなく、縁なくして恩というものもない。

しあわせは「仕合わせ」であり、それは「お互いにし合う」という意味の「為し合わせ」から来ている言葉だという話を耳にしたことがあります。

こういう言葉の綾は単なる「語呂合わせ」のようにも感じがちですが、日本語はこの「語呂合わせ」が非常に巧みにできている言語だと私は思うのです。

「気」が「合う」なら「気が合う」こと、つまり相性の良さを指しますし、「気」が「狂う」なら「気が狂う」こと、すなわち狂気に陥ることを指しますね。

東洋医学の「気」という言葉を使うことがお気に召さなかったら、「間」という日本の「あいだ」の哲学を使ってもいいでしょう。

「間」が抜けてしまうならそれは「間抜け」ですし、「間」が違ってしまうならそれは「間違い」を意味することになります。

このように、普段私たちが何気なく使っている日本語の中には、古来より連綿と伝わってきた日本の「縁(えにし)の伝統美学」があるのではないでしょうか。

中国より渡来して来た仏教の「縁起」という発想、すなわちすべてのものは互いに影響を及ぼし合い互いに依存し合いながら存在しているという智慧を大和言葉の中に上手に取り入れて、古神道や日本の美学と仏教を融和させることにいにしえの日本人は成功していたのではないかと私は思います。

しかしながら、私たち現代に生きる日本人は、日常の忙しさの中で次第にこころを失ってしまい、日本語に込められた感受性や精神性を喪失しつつあるのではないかと私は危惧しています。

グローバリゼーションと多文化共生社会が叫ばれるほどには上手く行かないこの国で、私たち日本人は何をこころの支えとし、また何を以って自らのアイデンティティとするような生き方をしているのでしょうか。

日本人はどこへ行こうとしているのだろう?

自国を愛せない人が真の国際人になることは出来ない

私はミッション・スクールの中高一貫校を卒業して大学に進みました。

私がその学校で多感な思春期を過ごしていた頃は、教師の大半が外国人の神父さんで占められていました。

私の高校二年生の時の数学の教諭がペルー人とアイルランド人であり、英語の教師はアメリカ人とカナダ人、物理の教師はドイツ人、生物担当はスペイン人、化学担当はフランス人、倫理政経担当に至ってはスペイン人とドイツ人といった具合でした。

さすがに現代国語と古文の担当教師は日本人でしたが、漢文は確か中国系の先生が教鞭を執っておられたと思います。

そういう環境の中でどっぷり六年間に亘って男子校生活に浸っていたので、私は外国人に対するアレルギー反応を持たずに育ちました。英語が飛び交う中で英語に親しみましたから、英語に対するコンプレックスも持たないで済みました。

このことについては、私は母校に恩義を感じ、感謝しています。

もっとも、思春期の六年間を男集団の中で過ごしたため、医学部に入学して最初に大学の講義を受けた時に、教室の中に女子医学生が居ることに対してすら奇妙な違和感を覚えたものでした。

私が国際色溢れる教育環境の中で学生生活を過ごしたことで、果たして私が欧米かぶれになったでしょうか?

いいえ、そんなことはありませんでした。私は相手の国籍や肌の色ではなく、その人の心のあり方を観て相手がどんな人か判断した上で、臆することなく外国人とも付き合うようになったのです。

私は横浜市生まれの浜っ子ですが、心の原風景はこんな感じです

母校で理事長をお務めになっていたドイツ人の神父さんから、中学校一年生のクリスマスの折に私はひじょうに大切なことを教わりました。

それが、「自国を愛せない人が真の国際人になることは出来ない」ということでした。

私は理事長先生から戴いた金言を胸に、それから外国人の神父さんたちとも関わって行きました。

そのため、私の心の中にはいつでも「私にとって日本とはどういう国なのだろうか?その文化や歴史、あるいは美学と言うものの良し悪しはどのような按配なのだろうか?そもそも私が日本を愛するということはどういうことなのか?」という問い掛けがあったのです。

それは「愛」とは何か、「愛する」ということの本質と実体はいったいどんなものなのかという実存的な悩みを生み出すものでもあったのです。

自分を愛さずに他者と共生することは出来ない

いま日本では、人口と労働力の深刻な不足に対する深刻な懸念により、とにかく外国人をたくさん日本国内に入れようとする施策が取られています。

政治家の中には、日本に移住する外国人に参政権を与えるべきだと考える人たちもいますし、さまざまな形で過剰なまでに在日外国人に対して行政や権力機関が忖度していることは今や周知の事実となりつつあります。

翻って、日本人はいま急速に祖国が瓦解するさまを見せつけられているのではないでしょうか。

政府はいまだに気前よく海外にお金をばら撒いて日本の外交をアピールしていますが、日本人児童の七人のうち一人が貧困に陥っている今、そんな気前のよい政策を執っている場合ではないはずです。

富士山も踏み荒らされて泣いているかもしれません

臨床心理学の概念に「境界線(バウンダリー)」というものがあります。自己と他者との相互の主体性を尊重し、互いの主体的な権利を侵害するように相手の世界に侵入してはならないというアイデアです。

医師が患者とともに治療関係の中を歩みながら患者の病と向かい合う時にも、この境界線という発想は大切です。もし医師の方が患者よりも偉くなって患者の主体性を侵害してしまうなら、それは「ドクハラ」と呼ばれる事態を招きますし、患者が自分の言い分ばかり医療関係者に押し付けるのなら、それは容易に「ぺイハラ」と呼ばれる好ましくないダイナミズムを生んでしまいます。

日本はいま病んでいると私は思います。人と人とが裁き合いディスり合い、いじめ合い罵り合うような愛の冷えた社会に、どうして日本が堕落してしまったのでしょうか。人と人との縁を大切にしてきた日本人が、どうしてかくも容易く互いに裏切り合うようになってしまったのでしょうか。

私はその原因は一つに特定できるものではないと思います。この国の形がかくも瞬く間に崩壊していっている原因は、新型ウィルスが社会に与えた脅威だけではなく、多因子的で複合的なものではないかと踏んでいます。

一つはっきり言えることは、日本人が日本の文化を自らの手で壊してしまうほどに日本人が祖国を愛していない現実こそが、その原因のひとつとして挙げられるということです。

それぞれがそれぞれに花咲く境界線(バウンダリー)を守りたい

臨床心理学の「境界線(バウンダリー)」という概念によると、自分を愛して自分の主権と守備範囲を尊重しないのに人様の主権と守備範囲を尊重することはあり得ないのです。

もし互いの境界線を守らずに、今の日本のように対外的に「いい顔」をして八方美人であり続けようと外国と依存し合うなら、それは臨床心理学的には「共依存」という事態であることに他なりません。

私は決して右翼でも左翼でもないつもりですし、日本が世界で一番優れていると思いあがっているわけではないのです。ただ、日本人としてこの国に生まれ、思春期に外国人の神父たちに囲まれて育つ中で、祖国日本を愛することの意味を問い続けて来ただけなのです。その上で、今の日本は精神医学的にも臨床心理学的にも病を患っていると考えているのです。

紙幅の関係で、私はここで現代日本に対するこまごまとした精神医学的ないし臨床心理学的なアセスメントを論じることを差し控えておきます。

現代日本社会そのものがアイデンティティの危機(アイデンティティ・クライシス)にあり、日本人が日本そのものに誇りを持てずに自国や自国民を嘲笑する「自傷行為」に耽っているという私の見立ては申し上げておきたいと思います。

自分を愛することなくして、他者とともに健康な形で生きることは出来ないのです。

日本では多文化共生がスローガンに掲げられていますが、自分の国を愛せずに「自傷行為」に逃げ込むしかなくなっている愛に飢えた日本人が、果たして外国から「入植」してくる人たちと共に健やかに暮らせるかと言うと、私は医学的にも臨床心理学的にもそれは無理な話なのではないかと考えているのです。

愛を戴いて生まれ、恩を返して終わる生き方を創りませんか?

日本語は習得するのがひじょうに難しい言語であるとして世界でも知られていますが、ドナルド・キーン氏のように、日本人以上に日本人的な感受性と日本文学に対する深い造詣を持っていた方もいらっしゃいます。ですから、私は外国人を排他的にこの国から排除するという考えには賛同しかねます。

しかし、今の日本の庶民は未曽有の苦境の中にあるのです。日本人の若者の中には確かに結婚したくない人もいるかもしれませんが、多くの若者にとっては、いまの日本で結婚して子どもを育てることなど遥か彼方の夢物語なのではないでしょうか。

この国難に瀕して、政府や行政に対して異論の声を挙げ始めた日本人の方々もいます。そういうアンチテーゼの示し方も一つの道だとは私も思います。

しかしながら、この苦難の根本にある「祖国と自己に対する日本人の毀損した自己愛の問題」の解決なしに、いくらシュプレヒコールを挙げても、なかなか事は進展していかないのではないでしょうか。

今の日本のために、そしてこの国と世界の未来のためにできることの第一歩は、日本人の傷ついた自己愛の修復にあるのではないかと私は考えます。

ですから、私はここに提案したいのです。

日本語は「あ・い・う・え・お」が大切であり、「愛(あい)」で始まり「恩(をん)」で終わる言語であることを、どうか皆さま、思い起こしてはいただけないでしょうか。

私はひじょうに難しい親のもとに生まれ、ずいぶん親にやっつけられましたが、それでも親は私に名前を付けてくれました。

私の名前は親から戴いた「世界一短いラヴレター」だと今では考えています。

そして、今では私は「○✖サバイバーだ」と自称する癖から解放されているのです。

親や世の中のことを恨まず、斜に構えずに自然体で暮らせるようになった今、私は「何々するべきだ」という「べき思考」からも解放されています。

おかげさまで、我執の強かったこの私でさえ、すごく楽に生きられるようになりました。

私を支えてくれている妻と娘たちや地域の友人たち、地域の子ども食堂を運営する皆さま、区役所を初めとする行政の皆さま、学校関係者の皆さま、そして何よりもいつも私の胸の中に居てあたたかく私を見守っている祖母の面影と神様に対して、私はここに深く頭を垂れて感謝をささげます。

「愛」を以って「命」を慈しみ、「運」が巡り来る人さまとの「縁」を大切に育み、最後には自分の体験した一切の恵みや慈しみに感謝して「恩」をみんなに、そして天に返していく、そんな生きざまをご一緒に探求していきましょう。

それこそが病んだ日本人の自己愛の傷つきの癒しの第一歩となり得ると私は思います。

「愛(あい)」で始まり「恩(おん)」で終わるような温故知新のライフスタイルの小路を歩むそのプロセスの中でこそ、みんなが互いを大切に慈しむ真の「共生社会」が成り立つのではないかと私は考えています。

どうか日本人諸氏よ、今この苦しい時こそ、愛を戴いて生まれ、恩を返して生きる生きざまをみんなで力を合わせて創っていこうではありませんか。

それが、「未来のためにできること」に対する私からの提案です。

ここまで長文お読みいただき、ほんとうに有難うございました。

感謝いたします。

#未来のためにできること

サポートしていただけたら感謝の極みです。頂戴したサポートはクリエイターとしての私の活動資金に使わせて頂きますが、同時にまた、私が協同しているこども食堂への寄付にも充当させていただきます。その子ども食堂はGhana出身のトニー・ジャスティスさんが運営する「ノヴィーニェ」です!