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嗅覚の慣れやすさとコーヒー

コーヒーの「味」の骨格は香りである、というのは論を待たないだろう。もちろん味覚の部分もあるのだが、香りがないコーヒーが味だけで今のような地位を得ることが出来るとは考えられない。


さて、そのコーヒーの骨格たる香りを感じる嗅覚は、非常に慣れてしまいやすい(順応しやすい)感覚として知られる。人は日常的にさらされている香りを次第に感じなくなっていく性質がある。例えば「家の臭い」は自宅では無臭と感じるがよその家に上がると「その家の臭い」が感じられるものであるが、よその家の人はその人の自宅は無臭に感じ、一方でその人を我が家に呼べば「我が家の特有の臭い」を感じているはずである。また、新しい銘柄の洗剤を使いだした時にはその香料がツンと来るほど強く感じるが、次第に慣れてくると無臭に近く感じるようになるだろう。

コーヒーについても同じである。私が初めて焙煎したてのコーヒーを飲んだ頃は本当に馥郁たる香りに感動したものであるが、自家焙煎に慣れてしまった今となってはその感動を感じることはできない。それをある程度でも再体験するためには1か月ほどコーヒー断ちをして香りに対する順応を解除する必要がある。


最近感じたのは、そのような香りに対する順応はコーヒーの銘柄ごとにも起きているということである。最近多数の銘柄を買いなおし、その中には発酵臭を持つナチュラル乾燥のエチオピアコーヒーがあるが、これは飲み始めのころは発酵臭がツンと来るほど強く感じられる一方、慣れてくると落ち着いたワイニーな香りに感じられる。

ケニアやルワンダなどは銘柄切り替え直後は独特のフルーティな香りが強く感じられ、深煎りでもそのフルーティさを感じることが出来てよいのだが、それをしばらく飲んでいるとフルーティさに順応してしまい深煎りに共通する焦げ臭さが強く感じられるようになる(焦げ臭さは危険シグナルでもあり他の臭いに比べ順応しにくい)。

最近はこのことを意識して、銘柄の特性を十分に引き出すために、焙煎のスケジューリングを調整したり、緑茶しか飲まない日を入れたりしてコーヒーの魅力を最大限感じられるような飲み方をしている。


この順応の問題は、特にコーヒーを職業としている人では問題になる。日常的にコーヒーを扱って香りに順応している売る側と、コーヒーはたまにしか飲まず順応していないお客さんとでは、同じコーヒー豆から感じる主観的香りの質が異なるからである(もっとも、嗅覚は個人差が大きいので元々その問題はあるのだが)。

例えばワインのテイスティングでは片方の鼻で嗅ぐのが常識とされているが、これは嗅覚の順応メカニズムのは末梢側でも起きており、順応していないフレッシュな状態を片鼻ずつ(鼻腔は鼻中隔というしきりにより左右に分かれている)交互に維持するためである(もっとも、下記のように多くのワイン解説では「不思議なことに」とか「利き鼻がある」といった解説がなされているが、不適当だろう)。

匂いというのは不思議なもので、両方の鼻の穴で嗅ぐより、片方で嗅いだ方がよく分かる。片方の鼻の穴がグラスから外れるように嗅ぎ、その後、両方の穴に匂いを漂わせるように、グラスを揺らして確認しよう。
――ワインテイスティングの方法――ラベル、コルクの臭い、ワインの色・香り・味わいをチェック

逆説的ではあるが、職業的にコーヒーを扱う人は、順応しないためにコーヒーの香りを深く嗅がないことがある程度求められる、と言うことである。

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