『マルクス哲学入門』田上孝一著

読んだ本の感想をnoteの記事に書いてみませんか?なる謳い文句が, 薄い字でこの画面に登場していたので, 今回はそれをやってみよう. あげる本は...『マルクス哲学入門』(田上孝一, 社会評論社, 2018年)としてみよう.

1 田上孝一とは

田上孝一という研究者のおおよその情報について, https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000070646603/ を参照してもらうことで, その説明に変えさせていただくことにします.

私の直観では, マルクスについて, 疎外論を中心にマルクスの著作を読み解いている方であると思われ, なぜだか, 物象化論でもってマルクスを語る研究者が多い(特に日本では顕著に多い)の中にあっては, 異彩を放っている人物であることは, ここで述べておこう.

2 本の目次

『マルクス哲学入門』と言う本の目次は以下のようになっています.

序章 今, マルクスを読む意義

第1章 マルクスの哲学とマルクス主義哲学

第2章 「アリアドネの糸」としての「定式」ー『経済学批判』の「序言」

第3章 理想と現実の模索から自由の追求へー青年マルクスの思想展開

第4章 唯物論とプロレタリアートとの出会いー『独仏年誌』の中心に

第5章 疎外された労働の分析ー『経済学・哲学草稿』の理論世界

第6章 疎外の止揚と分業ー『ドイツ・イデオロギー』の真実

第7章 『資本論』の哲学ー疎外・物象化・物神崇拝

第8章 『ゴーダ綱領批判』の共産主義論

第9章 マルクスとエンゲルスの関係

第10章 マルクスと現実社会主義

第11章 マルクスと環境問題

以上になります. なお, いくつかこの目次の中に, マルクスの主要著書(正確にはマルクスだけの単著だけではない)が挙げられていると言って良い. 従って, この本を読んでからでも読んでなくても, この目次に掲げられた著書を読めれば, マルクスの思想のおおよそは掴むことはできるはずです. ただし, マルクスに挑むには, 少なくとも当時の哲学, 神学(特にプロテスタント神学), 聖書学, 法学, 文学については知っておかないと, どこかで読み間違いが出てきてしまうので, かなり注意が必要です.

3 序章の解説

しばしばこのような入門書では, 各々の章を均等に解説することは, できないししてはならないとされる. それは第一に, その本を読む価値を減らすような行為であるからである. 第二に, 筆者はどの章にも全力を注いでいるのが常であるが, 往々にして序章というものが, 一番難しく, 一番時間をかけて書かれるものであるからである. ちょっと換言すれば, 均等な力で持って全ての章が書かれているわけではないからである.

従って今回は『マルクス哲学入門』における序章だけを比較的詳しく説明するというスタイルをとることにする. 全般的に知りたいのであれば, それは図書館で借りるなり購入するなりなんなりして欲しいと思うのである.

「この本では, 巷に溢れる安直な「マルクス本」とは対照的に, マルクスが理論家として何を求め, どのような視座から彼の主要な認識対象である資本主義社会と, そこに生きる人間を見つめていたのかを探求する. これはまさに, マルクス思想全体の哲学的核心を明確にしようという試みでもある. というのは, マルクスの哲学は後の後継者によって作り上げられた「マルクス主義哲学」とは異なり, 彼の終始一貫した考察対象である資本主義社会の分析と批判のための基本視座として練り上げられたものだからである. その哲学とは疎外論である. だから本書は, 疎外論であるマルクス哲学の理論的射程を, マルクスのテキストにまだ親しんでいない読者にも分かるように, 平易に解説していこうという試みだといえる」(5ページ)

この引用に, この本の目指すものと主要な論点が全て入っている. まず, マルクスは理論家としてではあるものの, 決定的に現実に生きる人間を見ようとしていたと言う重要な視点が提供されていること. そしてその人間は資本主義社会(『資本論』においては資本主義と訳すべき単語は実は一箇所だけに使われているらしく, ほとんどは資本制と訳されるべきところに, 誤って資本主義という言葉が使われているらしい)に生きる人間なのだから, 当然に資本主義社会を認識の対象として見定めていたということ.

また, マルクスは, その後継者たちによって作られた「マルクス主義哲学」とマルクスの哲学とは異なるところがあるという指摘がなされていることも重要である. なお一般的な話ですが, ケインズは自分をケインズ主義者とは言わないし, レーニンは自分をレーニン主義者とは言わない. だから, マルクスは決してマルクス主義者ではないというのは, 当然な人にとっては当然なのであるが...

さらに, マルクスの思想の中心には, 疎外論というものが存在しており, それはマルクスの生涯において, 一貫して貫かれていたという指摘もされているのが重要である. このような指摘がなされるということは, 巷に溢れるマルクスの解説のほとんどが, 疎外論を重要視していないということを暴露していることになるのである. ちなみに疎外論とよく対立的に語られ, これがマルクスの考え方であるというふうに, 広く受け止められているものは, 物象化論というものである. いわゆる疎外論と物象化論の対立というものである.

加えて言えば, 平易に解説するということは, マルクスのテキストの引用は必要最小限に留めるということを宣言することと実は等価なのである. これは一重に, マルクスの本文は, それを読みこなすために必要とされる下地的な共通認識が, 異常なほど高いレベルで必要とされるという, マルクスの非凡さを表すことが理由にはなっている. つまり, マルクスはこうであるとかいうことそのものが極めて難しいということなのである. 少なくとも, マルクスはこうだ, などと軽々しくいうことは, できないということが, 読み取れれば十分であると思われる.

「『フォークト氏』という奇書は, マルクスという人物のパーソナリティをよく示している. マルクスは若き日に先輩研究者であるブルーノ・バウアーが大学の職を追われたのを見て, バウアー以上にラディカルな主張をする自らを振り返り, アカデミックなポストを得ることを断念した. だがその精神は, どの教授先生よりも圧倒的にアカデミックである. 読者を慮って程よく妥協などしない. やる時は徹底的に, 調べるべきはとことん調べ, 論証するべきは反論の余地がなくなるまで行う. 医者にそれ以上勉強すると死ぬと警告されても, マルクス自身の表現で言えば, 「本の虫」であることを止めなかった. それだからこそ彼以外誰も書くことができない『資本論』の著者足り得たのである」(11ページ)

『フォークト氏』という奇書という表現からは, マルクスの著作であってもほとんどその存在が知られていないものとして存在するということが読み取れる. さらに言えば, この本にはマルクスの自分語りが書いてあるという指摘もなされている.

この引用で面白いのは, マルクスは決して迫害されたからアカデミックなポストを追われたとかいう話ではないということである. 圧倒的すぎるアカデミックな態度は, 既存のアカデミアの世界では, 急進的=ラディカル=根源的にすぎるので, しばしば迫害に遭うだろうことを, マルクスは予見していたのだろう. この自信は, マルクスが決して妥協することなく徹底的に自分の書き物に向き合ったことから出てくるものであると思われる. だからこそというべきか, マルクスは当時までにあったほとんどあらゆる文献は, 政府公式文書を, 時に引用を明記することなく縦横無尽に使うことがあり, そのために後世のものからすれば, その常識がないために読解が困難であるとか, 誤った読解がなされることになってしまうのである.

「「自分を語らない」マルクスであるが, それではどうやってマルクスを知ることができるのか?確かに彼が自己自身を語るのは, その書いた総量に比して, 余りにも少ない. そんなマルクスが例外的にまとまって自分自身を語っているのが, 『経済学批判』(1959年)の「序言」(Vorwort)である. / この助言は, 一般には唯物史観の「定式」が語れている箇所として名高いが, それと共に, その定式を認識するに至るまでの思考の歩みを手短に振り返っている点も, 定式に劣らず重要である. そこで, マルクスの思想を解説するに当たっては, この助言を読むことから始めるのが最適であると思われる」(12−13ページ. / は段落の変わり目を表す)

これは私の妄想なのであるが, 自分語りをしたがるタイプとそうでないタイプに, 思想家は二極化する傾向があるように思われる. そしてこれまた偏見だが, 夢想家タイプは自分語りをよくするのに対し, 現実家タイプはそれを禁欲するという感じがしているのである. この私の直観は実は, マルクスについては外れていないように思われるのは, この引用で述べられているとおり, マルクスの自分語りはほとんど存在しないといえるからである.

4 第1章以降は自分で読んでみよう

この序章の解説が, どれほど『マルクス哲学入門』という本の魅力を伝えることに成功しているかどうかは, 私には判断不能である. しかしながら, 私は努めて, この本が何を狙いとしているかということと, マルクスという人間の, アカデミアに対する, あるいは現実に対する認識がどのようなものであるかということについて語ってきたつもりである. 正確には前者については, 明示的に語ったのに対し, 後者については, 暗示的に語っているのではあるが, それでも, 特に後者については, 関心を抱かせるような書き方になっていると, 私は判断している.

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