どうでもいいところで間違えよ

誰かの金融負債は誰かの金融資産である。この世に現存する全ての金融負債を返済するとこの世に現存する全ての金融資産が消滅するように,もしも幸運と不運というものが,合計の差し引きでゼロになるというようなしろものであるとすれば,幸運という意味で一人勝ちすることも不運という意味で一人負けすることも,社会的動物たる人間にはあってはならないことであると思われる。全てにおいて成功しようなどと思う人間は全てにおいて失敗するというオチが待っているだけなのである。とするのならば,どうでもいいところやどうでもいい場面において,人間には間違えるという動作が必要であるという判断が導かれないだろうか。そもそも人間とは間違える動物なのであるからして,全く間違えないという人間は非人間的存在として他者から認識されるに違いない。

1 ここぞという場面に失敗したくないあなた!

人間には回数の差こそあれ,ここぞという場面が到来する。自分でここぞという場面を作ることができるというよりかは,自分にとってのここぞという場面が到来してくるという言い方の方が,ここぞという場面に直面する当事者にとっては相応しい言い方のように思われる。そのような場面でこそ間違えたいのだと思う人は別として,ここぞという場面で間違えたくないと考えるであろう多くの人たちにとって,どうでもいいところで間違えよというコメントは,奇怪に映るとともに何かよくわからないような怪しい魅力を放っているように見えないだろうか。

私の場合であれば,古典ラテン語や古典ギリシア語の購読授業が,少なくとも私のMMT研究においてよりはどうでもいい場面であるといえる。とするならば,その購読授業の時に,どうでもいいような間違いをしてしまうことを,私は別段恥であると思わなければ良いのだ。そもそも古典ラテン語も古典ギリシア語も,ほとんど死語であると言わざるを得ない状況であり,そもそもそれらの言語に興味を持つことは,ある程度の変態性を有していることの証明として機能してしまう。
古典ラテン語と古典ギリシア語の勉強を初めて,少なくとも2年は経っているわけであるが,「語学に終わりはない」という言葉に救われつつも,それらの言語で書かれた文章を読むときに欠かせない文法解析(名詞であればその単語の性数格,動詞であればその単語の時制人称単複,を特定する作業)において,悩まされ続けている。そしてほとんど毎回の授業において,予習時に気づかなかった間違いに気付かされることになる。だがそれが良いのだ,ということを私は言いたいのである。なぜならば,そこで間違えたおかげで別のところで間違える可能性が減っていると判断できるからだ。というのも,購読授業は言うまでもなく研究という行動もまた言語を扱う活動である以上,同じ活動であると言い張ることができるのであって,同じ活動であるとするならば,その活動における間違いの量には限界があると思い込むことにして「ここで間違えてよかった!別のところで間違えなくなるぞ!」と私を元気付けることができるからである。

2 Festina lente

Festina lenteという言葉は古典ラテン語である。その意味するところは「急げ,ゆっくりと」となる。日本語のことわざで言えば「急がば回れ」に相当する言葉であると思ってもらって良い。世界情勢は瞬く間にいろいろな変化を起こしていて,その変化が激しいがあまりにむしろ何も変わっていないように見えるくらいである。そんな世界情勢に対して自分が合わせようとして無理に動けば,世界に私が振り回されるだけに終わってしまう。私がいなければ世界は終わるのである。私が完全にいない世界というものを私は考えることができない。なぜなら「私が完全にいない世界」を考えていることができている時点で,私は存在してしまっているからだ(ここら辺のいわゆる存在論(ontology)については,知を愛する学問たる哲学において常に重要な問題であり続けていると思われるが,詳細についてはとてもじゃないが突っ込めるものではない。私の哲学への触れ方はたかだか趣味程度のものに過ぎないからである)。

神でもなんでもよいがとにかく人間の関わらないあるいは人間によって左右されることのないものに従うことが,あなたを自由にするのである。真理は人間が発見するものなのか人間が発明するものなのか,という問題を立ち上げるだけで,あなたはその問題について考え続ける自由を勝ち取ることができる。

(これ以降に書かれることは,ここまでのことを書いた日時から一日経った後に記したものとなる...)

3 自然に生きる

人間の生物としての機能は,人間が生まれてからほとんど変わっていない。少なくとも肉体的機能については人間は変わっていないといえる。というよりもむしろ,肉体的機能に限って言えば退化してきているといえる,言えてしまうくらいの状況になっているのではなかろうか。過去に囚われて未来を嘆く生き物としての人間は,自然に生きることをほとんど忘れてしまっている。それはこれを書いている私も例外ではない。

自然に従属することと自然に対抗することとを同時に成し遂げるのが動物であろうが,人間はその両方を自らの生存に最も適するような形で成し遂げることはできない動物といえよう。神は自分の姿に似せて人間を創造したわけであるが,だとすれば神はなんと残念な動物である人間を創造したことになるのであろうか!カトリックとプロテスタントとでは同じキリスト教と言われているものの,自然に対する考え方が異なっている。「存在の類比」というアナロギア(類比)をカトリックが強く考えるのに対し,「信仰の類比」というアナロギア(類比)をプロテスタントが強く考える,と非常に大雑把にいうことができる(もちろんこの分類は不十分であることは言うまでもないけれども)。カトリックとプロテスタントのどちらがより自然本来的なものを大切にしようとしているかは,今の所私には判然としないので,結論じみたことを書くことはしないでおく。

私は小さい石を,それも小さくて丸い石を集める癖を幼少期に持っていたという。ただ小さ過ぎてもダメで,ある程度の大きさがある丸い石でなければ私の興味のひくところの石として認定されなかったようなのだ。とは言ってもその石を家に持ち帰ると言うことはしてなかったように思われる。石がたくさんあるような場所に行くと,こう言う形での石収集を行っていたと言うのだ。小さ過ぎない程度に小さくて丸い石。しかもツルツルしている石を特に好んで集めていたような気がするのである。ザラザラしたりゴツゴツしたりしているものよりも,まるっとしていてツルツルなものを好むという私の習性は,ひょっとしたらこの私の幼少期経験から身についたものなのかもしれない。




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