クライシステオロジー, つまり危機神学 その1

こんにちは. 今回は, https://note.com/headphone/n/n39baf3aa9b9c の続きを書いてみます.

1 近代自由主義神学とは何か?

危機神学を説明する論考で, 近代自由主義神学の説明?と思う人もいるでしょうが, どうしても必要なものなのです. 許してください.

前回の記事で私は次の引用を行いました.

「第一次世界大戦後スイスとドイツを中心におこったプロテスタントの神学運動で、キリスト教神学が近代主義の枠を乗り越えて現代的展望をもつ突破口となった。19世紀後半の近代自由主義神学は、F・E・D・シュライエルマハーの思想を出発点とし、近代的知識人とブルジョア社会の要求に適合するものであったが、資本主義が内的自己矛盾を露呈し、階級闘争と帝国主義戦争が起こったとき、それを批判し、解決の方向を示す力をもたなかった。大戦後の荒廃のなかで教会の無力に失望していた人たちに対して、スイスの小工業村ザーフェンウィルの牧師カール・バルトの書いた『ローマ書』(1919、改訂二版1922)が衝撃的影響を与えた。彼は学生時代ハルナックの下で自由主義神学を学び、そこから出発したが、従来の神学では搾取と抑圧に苦しむ村民の魂に語りかけえないことを知り、社会主義にも触れて、新しい神学の方向を模索した。その成果を盛り込んで発表したのがこの書である。その中心点は、近代ブルジョア社会と人間中心主義的な近代文明に奉仕するキリスト教から脱して、神の絶対的超越性を回復することにあった。「神は神である」や「神を神とせよ」といった主張は、それを意味する。それによって神学は、絶対的超越神の下で、近代社会の矛盾と近代人の傲慢(ごうまん)を批判し、挫折(ざせつ)からの救いの方向を示すことができるようになった。」

この引用に, 出てくるのですよ. 近代自由主義神学という言葉が. だから, 説明することが必要なのです. なお, ここでの中心人物は引用にも上がっている, F・E・D・シュライエルマハーという神学者です. あとで述べますがこの人がいなければ, ドイツの大学はなかったと言われるほどに偉大な人なのです.

さて, この, シュライエルマハーという神学者ですが, 彼はキリスト教における神を次のように定義しなおしました. つまり「神は人間の直感と感情にある」というものにしたのです. これによって, キリスト教そのものの力が弱まっていた時代において, キリスト教が人間的なものに近づいたことで, その力を復興させたのです.

またシュライエルマハーは, 近代神学の父, と呼ばれていたり, 大学教育の父, とも言われています. 教育に関するこのような呼ばれ方の理由は次のとおりです. つまり, 近代がフランス革命によって始まるという定義が可能である現段階において, ナポレオンは, 大学を職業訓練校にしようとし, フランスは一時期そうなったのです. ナポレオンはこの考えを当然に西欧全体に広げようとしました. ドイツ以外の国はその考えを受け入れることになってしまったのですが, シュライエルマハーは争いました. そのようなナポレオンの考え方は間違っている. 大学の教育とは「目に見えないものの価値」を学ぶ場なのだから, 職業訓練校は別に作ればよろしい, という主張をしたのですね. そのおかげで, ドイツには, 古き伝統を守るユニバーシティ=ウニベルザーレが残るだけでなく, その価値が, ユニバーシティの価値が上がったのです.

2 シュライエルマハーの神の定義の致命的弱点

確かに彼は, キリスト教の近代自由主義神学を作り上げた一人として, 尊重されるべき天才です. しかし, 「神は人間の直感と感情にある」という彼の定義は, 実は恐るべき危険性を, キリスト教を脅かす危険性を孕んでいたのです. どういうことなのでしょうか. それは, 神は人間の直感と感情にある...ということは, 神は人間の心にあるということになりますよね. そしてこれは神は人間と同一であり, 人間が神になることが可能であるという考え方を誘発してしまったのです.

プロテスタント神学では, 神は人ではなく, 人は神ではない, 神であり人であるイエス様を, キリストを信じることで救済されるという立場がキリスト教であるという考えを基本とします. つまり, 神と人は絶対的に違う存在なのです. ところがシュライエルマハーの定義はそれと真っ向から反対することになってしまっています. それがきっかけなのか, 実際に次のようなことが起きました.

「近代的知識人とブルジョア社会の要求に適合するものであったが、資本主義が内的自己矛盾を露呈し、階級闘争と帝国主義戦争が起こったとき、それを批判し、解決の方向を示す力をもたなかった。」あるいは「近代ブルジョア社会と人間中心主義的な近代文明に奉仕するキリスト教」が近代自由主義神学なのです. つまり, 簡単に言えば, 世界大戦を止める術を近代自由主義神学が持っていなかったということになります.

3 近代自由主義神学を批判せよ

ということで, 近代自由主義神学を批判する必要があると感じた大天才が, 神学者にいたのです. そう, その一人が, カール・バルトと呼ばれる人です. この人は, 現代神学を学ぶ上において, 絶対に避けることのできない人物であり, 彼の著作を読まずして, 現代神学を語ることは許されないという評価ができるほどの偉人であります. シュライエルマハーが近代自由主義神学の父ならば, バルトは危機神学の父, ということもできます.

投稿が長くなったので, カール・バルトの話は次回の投稿で行いますねー.

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