ごった煮...

1 気持ち悪い

「権力こそ自由!」という言説を見たときに, そしてその言説は幻冬舎に勤務する某編集者の発言なのであったが, 私は幻滅した. この発言は私が真実であると考えている「制限は自由である」という命題と, 一見似ているように見えるかもしれないが, 全く異なるのである. それについてまずは議論を展開してみたいと思う. ああー, この言説を見るだけで吐き気がしてくるわ!!

「権力こそ自由!」という言説がいかなる経緯と目的を持って述べられたかは, もはやその言説をした当人にも理解不能なものとなっているだろうが, あえて想像するとすれば, この言説は「権力という力があるおかげで, その力を背景にしたいことが, 制限されることなくできるようになるからこそ, 権力こそ自由である」ということを言いたいように見える.

この言説は全く矛盾していないが故に気持ちが悪い. 兎にも角にも気持ちが悪い. なぜなら, 第1に, 権力がない人の自由に対する配慮が一切存在しないし, 第2に, 権力を使うものは権力によって使われることになるという当たり前の矛盾に気づいていないからである. 大体において, メディアの仕事は権力側から言われたことだけでなく, 権力側が言って欲しくないことであっても, それが真実であるならば, 公表し, 世間に批判の土俵を与えることなのである. 権力者に迎合するメディアはもはやその存在価値のほとんどを失っていると判断すべきである.

実は私はこんな話をしたかったのではない. なぜなら「権力こそ自由!」などという, 私からしたら嗚咽感を引き起こしかねないほどに気持ちの悪い言説に対して, 貴重な時間を奪われてしまったからであり, さりとて, その気持ち悪さを放置するわけにもいかずに仕方なく「書く」ことによってそれを慰めようとしたからに過ぎないからである. 私がしたかった話の一つは, 男性が自らを「俺」という風に呼称することは, 自らが傲慢な存在であるということを自己主張していることになるのではないか, ということである. あれ?されど, この話は以前の投稿でした記憶があるような気がするので, この投稿ではやめにしておこう.

2 奨学生たる私

今日は「野間文化財団奨学金」の第1回懇談会兼奨学金授与が行われた, ということを報告することが, この投稿の本来の趣旨であったので, 私は以下でそれについて述べてみたい. 「野間文化財団奨学金」は以下の大学の修士課程1年生を対象に, 彼らが修士課程を卒業するまでの学術支援を目的として, 一定額の奨学金を給付するというものである.

奨学生の所属する大学は, 東京大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学・早稲田大学・慶應義塾大学・中央大学の七つの大学のいずれかである. 私を含め今年度の奨学生は全員で15人おり, 私も含め専攻がほとんど全員とも異なっているのである. 従って少なくとも私には, 非常に刺激的な経験をさせてもらえるだろう予感がある. なぜなら, 私にとってほとんど未知な領域に関する話を, それもたくさんの方からしていただける可能性が高いのだから!

奨学金の受け取りは基本的に三ヶ月に一度のペースで行われるので, 次に直接会えるのは三ヶ月後になるだろうが, 奨学生の何人かとは, 連絡先の交換に積極的な奨学生の後押しのために個人的なLINEの連絡先を教えあうことに成功したので, ともすれば彼ら彼女らの何人かとは三ヶ月を待たずして会うことになるかもしれない!

3 他者とは会話不能...だからこそ面白い

「他者」とわかり合うことは可能であるか?みなさんはきっとこの問いに関して様々な留保をつけるかもしれないが, 基本的に肯定的な返答を, すなわち可能であるという返答をするのであろうか. しかし私から見れば答えは歴然としている. その答えは「他者」とわかり合うことは不可能であるというものである.

なぜならば「他者」は私とは異なるものであり, その異なるということの程度は, 私のいかなる言語体系または思想体系をもってしても理解不能, それも一切理解不能であるという程度, 換言すれば「理解不能である」ということだけが理解されるような程度の存在が「他者」なのであるからだ. 「分かり合えるかも」という希望はそのほとんど全てが絶望的に打ち砕かれるものである.

これを否定するものは原理的には, あるいは根源的にはいないはずである. 「他者」の述べることを理解しようとするあまりに自分を過剰に消費してしまっている人を私は数多く見てきたし, 今も見ている. すなわち「他者」に迎合するものたちのことである. いや正確に言えば「他者」に迎合しようとして結局迎合できずに苦しんでいる人々のことである. 良いではないか!

「他者」とは絶対的に理解不能な存在であるのだから, 無理矢理に迎合しようとしなくても!というよりも絶対的に理解不能な存在に対して自分が「迎合できる」などと思ってしまっているその発想こそ, 大いなる欺瞞である, と私は声を大にして申し上げたい. 自分にとって理解可能なものはそれはすでに「他者」でなはく「自己」なのである.

間違っても私以外の全ての異なる存在が「他者」などとは言ってくれるな!むしろ「他者」の存在は思ったより多くない. 多くないからこそ「他者」の存在は威力が高いのである. どのような意味での威力かと言えばそれは「自己」を徹底的に破壊するという意味での威力である. 人はよく「他人の気持ちになって考えなさい」という.

そして私はこの言説そのものには反対しない. されど私が反対しないのは, この発言をするものが, 「他者」を理解することは不可能であるからこそ, 不可能なことである他人の気持ちの理解に努めなさいということを意味している限りにおいてのことである. ようするに他人の気持ちを理解できるという風に思っている人がこのような言葉を発することには私は, 強烈な反対を申し上げたいのである. なぜなら他人の気持ちとやらが理解可能なものだとしたら, それはもはや「他者」ではなく「自己」だからである.

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