人間という病

1 医学の発展は病の発展を必要とする

医学の発展は人間の歴史と相並ぶ。ということは,病の発展もまた人間の歴史と相並ぶということになる。なぜならば,病の発展がないことには医学も発展しようがないからである。

人間は生きているだけでなんらかの病を発症しているものだ。病と認定されていない状態が続いているということは,自らが病にかかっていないということを保証するものではない。

思考は続く。病は続く。終わりの始まりに向かって私たち人間は生きている。死なないように生きている。ときには死を目的として生きているような人間も存在する。というよりも,終わり=目的,ということを英語のendは体現している以上,死という終わりを目的に生きる人間が一定数いることは,否定しようがないだろう。

思考は続く。人間は続く。いついかなる時も,人間という種族だけは,他の種族のことなどお構いなしに,生き残りを優先する種族である。かと思えば,自らの民族意識やら選民意識やらのために,同じ人間という種族でありながら,他の民族に対して潜在的反発ならともかく,明示的な反発を表明し,民族浄化なるものを平然とやってしまうというのもまた,人間という種族なのだ。

生きている限り人間はなんらかの病を抱えている。その病が社会的あるいは生理的に認められているかどうかは問題ではない。なんとなればすなわち,特に,社会的に認められている病気だからといって,その人本人にとっては病として認識されているわけではない,ということがあり得るからだ。

2 信仰に生きんとする人間

ヨゼフ・ルクル・フロマートカという神学者がいた。私の神学勉強において,重要な人物の一人である。とはいっても私の神学勉強は,どこかしらの神学部に通うと言う事をやっているわけでもなければ,どこかしらの教会に通うと言うことをやっているわけでもないので,趣味程度のものに過ぎないことを,ここであらかじめ述べておかなければならない。私の神学勉強の歴史は,どれだけ多めに見繕っても,十年は経っていない(しかも私の場合は,専攻が神学というわけではないので,十年といってみたところで,実際の経過時間としては十年という時間よりもはるかに少ない時間しか,神学の勉強に費やしていないのである)ものであって,これは,いわゆる専門家と言うものを名乗るための年数としては甚だ不足しているものなのだ。(ちなみに,日本という国においては,学部課程四年,修士課程二年,博士課程三年という年数において,それぞれ学士論文,修士論文,博士論文の審査に合格することが許されたのであれば,理論上は九年間の時間をかけることで,博士という学位を手に入れることができる。しかも場合によっては,飛び級制度ではないものの,特例的に過程の一部を短縮することを許される人もいる。九年間で,あるいは場合によっては九年間未満という期間で,博士号という資格を手に入れることのできた人間を全否定するものではないのであるが,少なくとも神学という学問に限って言えば,九年間程度の勉強で専門家の代名詞とも言える博士という学位を手に入れられるからといって,博士という学位を手に入れた人が専門家である,とは言えないのではないだろうか。私はその疑問を頭の中から払い除けることはできないのである。)

神学の勉強を本格的にやろうとするのであれば,特にキリスト教の神学を本格的に勉強しようとするのであれば,言語的な素養も文化的な素養も,その他の事柄も学ばなければならない。例えば,言語で言うのであれば,旧約聖書の言語であるヘブル語(ヘブライ語)や新約聖書の言語であるギリシア語(コイネー),さらには古典ギリシア語や古典ラテン語,もちろん英語は必要となってくる。しかも,この神学者の言説を特に勉強したい,と言うことになってくれば,その神学者の母語や,その神学者の書物に書かれた言語を学ぶことが必要となってくる。言語だけでも大変な勉強量が求められるのである。しかも言語だけに限らないのが神学勉強の大変なところであって,時代時代や地域地域で流行っていたないし流行っている哲学についても,一定程度学ばなければならない。これは,神学も他の学問と同じように時代や地域による影響が入り込んできており,その影響を媒介する学問としてもっともいろいろな学問に影響を与えているものが哲学だからである。

「福音は信仰を希望と結びつける。信仰を持つ者は前を見すえ,また明日のため,近い将来のため,時の終わりのための神の力に満ちた行為を待ち望む。信仰が強くなればなるほど,希望も情熱的となり,勝利に満ちたものになる。希望は信仰の不足を補うのではない。希望は信仰と共に生まれ,信仰が成長すれば希望も成長し,信仰の力が強くなれば希望も強くなる」(フロマートカ『人間への途上にある福音』新教出版社,邦訳316ページ)

「神の言葉は単に人間の後を追うだけでなく, 実際に人間のところに降り立つ. けれどもそれは, 単に人間の心, 人間性の最も深い本質に浸透するという意味ではない. 単に良心を刺激し, 人間が抗えない形で, 避けられない形でその内面に影響を与えるという意味ではない. 神の言葉が人間の場に降りるということは, 人間になる, そう, 肉体になるということなのである」(フロマートカ『人間への途上にある福音』新教出版社, 邦訳156ページ)

「何が起きるかを推論したり, 明日や明後日のことについて無駄で無益な推測をするのは, 私たちの関知したことではない. そうではなく, 私たちは従順に自分が置かれた場所に立ち, 自分の信仰の光の中で出来事を理解し, 来る日ごとに定められた務めを行うよう, 呼びかけられている. この開放性と従順な備えの覚悟が, 真の自由と表裏一体のものなのである. これらがないところには自由もない」(フロマートカ編著『宗教改革から明日へ』平凡社, 邦訳394ページ)

3 時間とは時の間である

世界は時の間である。時の初めと時の終わりは神の専権事項である。言い方を変えれば,被造物である人間には時を終わらせることも時を始めることもできないということだ。人間があるから地球が生まれたのではない。人間は地球という場所を発見したというのであれば,確かにそうかもしれない。が,人間が地球という場所を発見することができたのは,先に地球という場所が人間の前に存在していたからである。

だが,ここで注意しなければならないことは,人間には表象能力があるということだ。つまり,目に見えるものだけが存在だ,という認識に対しては人間は違和感を持つということである。目に見えないものであったとしても存在するものは確かにある,という認識は人間を人間たらしめる条件の一つであると言える。信仰,希望,愛などといったリアルは,目には見えない。しかしそれらが存在しないと言い切れる人間もまたいない。信仰がないといっている人間は,信仰がないということを信仰しているだけであり,希望がないといっている人間は,希望がないということを希望しているだけであり,愛がないといっている人間は,愛がないことが愛であるといっているだけである。ないはない。あるはある。などと単純に割り切ることができないのが人間なのだ。ああ,なんともトラブルを抱えている種族たる人間の,奇怪なことよ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?