MMTとマルクス:フォーステイターに着目して(メモ)

1 フォーステイターって誰?

Mathew Forstater(ここではマシュー・フォーステイターと呼ぶことにする)という研究者がいる。この人はMMT(Modern Monetary Theory,現代貨幣理論)の研究者として有名な人物の一人であるはずなのだが,日本ではそのように認知されていないとしか思えない。(ただし,フォーステイターがMMTの研究者であることの傍証は,レイの『MMT現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社,2019年)を具に読むとわかるのである。少なくとも『MMT現代貨幣理論入門』の邦訳287-288ページ,410ページにおいて,フォーステイターの名前がMMTの諸主張を支える形で登場しているのである。)Warren Mosler(ウォーレン・モズラー)というMMTの父と呼ばれる人物と共著者となって,'The Natural Rate of Interest Is Zero'(Journal of Economics Issues Vol. 32, No.2, June 2005)という論文を書いている。「自然利子率はゼロである」とこの論文のタイトルを和訳することができよう。ただし少し哲学や数学を齧ったことのある人なら思うことがあるかもしれないこととして,ゼロという単語の難しさである。自然利子率がゼロ,ということは「自然利子率なるものは存在せず,仮に存在していたとしてもそれはゼロであって存在しないはずのものである」ということを意味するかもしれないからだ。この論文における「自然利子率はゼロだ」の意味については,この記事では触れないこととする。ここで書きたいことではないからである。

この記事で紹介したいのはフォーステイターの論文の一つである,'Taxation and Primitive Accumulation: The Case of Colonial Africa'(The Capitalist State and Its Economy: Democracy in Socialism Research in Political Economy, Volume 22, 2005)という論文である。タイトルを日本語に訳してみると「租税と本源的蓄積:植民地時代のアフリカの場合」という感じになりましょうか。

2 「租税と本源的蓄積」

本源的蓄積というふうにPrimitive Accumulationを訳してみたが,これには訳がある。マルクスの『資本論』第1部第24章のタイトルが「いわゆる本源的蓄積」(ドイツ語のursprüngliche Akkumulationが本源的蓄積という日本語と対応している「らしい」。「らしい」と書いたのは,この記事の執筆者がドイツ語を学んだことがないことが理由である。)となっていることが,その理由である。そこで,この記事では備忘録的にフォーステイターの「租税と本源的蓄積」論文においてマルクスの文章が登場するところや,この論文の要旨(abstract)を書くことを狙いとする。(この論文の要旨は,この記事の執筆者が試しに訳してみたものである。)

2−1 要旨

「『資本論』の第1巻において,マルクスは彼が「本源的蓄積の秘密」と呼んだところのものの割り付けを行なった。資本蓄積には,何らかのそれ以前の蓄積,つまり「資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積」(1990,p. 873)が先行していなければならない。マルクスは,ヨーロッパの歴史に集中して,資本主義的生産のために必要となる「二重の自由」を同定した:すなわち,労働者は彼らの労働力を売るために「自由」でなければならず,そして,彼らは生産手段から「自由」でなければならない。しかしこの分析において,マルクスは自らの言及をヨーロッパに絞っていただけでなく,彼は実際に,「典型的な」事例はイギリスに限定されるが,一方で「この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており,この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代も国によって違っている」(p. 876)と述べていた。ヨーロッパの植民地においては,土地の収用と強制労働が使われていたが,賃金労働者として働くこと,あるいは市場用作物を生産することを,土着の民衆に強制するようなもう1つの重要な手段が,租税と租税は植民地の通貨で支払われなければならないという要件であった。本稿はこの方法の全体像を提供し,その歴史的重要性を,アフリカに集中して文書で証明する。租税もまたアフリカ経済の貨幣化と商品化,そして周辺資本主義の台頭において,重要な役割を果たした。本稿が示すように,マルクスは貨幣納税がこのように機能すること,そしてその現象はアフリカにけっして限定されないということに,気づいていないわけではなかった。」(Forstater, 2005, p. 51)

(注。「1990, p. 873」と「p. 876」は次の参考文献をもとにしている:
Marx, K. (1990 [1867]). Capital: A critical analysis of capitalist production (Vol. 1). Penguin Classics.)

2−2 マルクスの文章からの引用

ここまではかろうじて文章の体裁をなしているこの記事だが,この小見出しではそのスタイルを放棄して,箇条書きを行うこととする。ちなみに,先にも述べたがこの記事の執筆者はドイツ語を解さないので,邦訳は全てその著作における邦訳を採用したものとなる。

「典型的な」事例はイギリスに限定される(『資本論』第1部,S. 744)
「本源的蓄積の秘密」(同上,S. 741)
「資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積」(1990,p. 873)(同上,S. 741)
「この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており,この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代も国によって違っている」(p. 876)(同上,S. 744)
「いわゆる本源的蓄積は,生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである」(pp. 874,875)(同上,S. 742)
商人資本は「資本主義的生産様式の発展のための歴史的前提でさえある」(Marx,1991,p. 444)(『資本論』第3部,S. 339)
 
「少しも疑う余地のないことであるが  しかもまさにこの事実こそはまったくまちがった見解を生みだしてきたのであるが  ,一六世紀および一七世紀には,地理上の諸発見に伴って商業に大きな革命が起きて商人資本の発展を急速に推進し,これらの革命が封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行の促進において一つの主要な契機をなしている。世界市場の突然の拡大,流通する商品の非常の増加,アジアの生産物やアメリカの財宝をわがものにしようとするヨーロッパの国々の競争,植民制度,これらのものは生産の封建的制限を打破することに本質的に役だった­」(Marx,1991,p. 450)。(同上,S. 345)
 
「アメリカの金銀産地の発見,原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没,東インドの征服と略奪との開始,アフリカの商業的黒人狩猟場への転化,これらのできごとは資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのである。これに続いて,全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる」(Marx,1990,p. 914)。(『資本論』第1部,S. 779)
 
「植民地ではそうではない」(Marx,1990,p. 931)(同上,S. 792)
 
「いまや本源的蓄積のいろいろな契機は,多かれ少なかれ時間的な順序をなして,ことにスペイン,ポルトガル,オランダ,フランス,イギリスのあいだに分配される。イギリスではこれらの契機は一七世紀末には植民制度,国債制度,近代的租税制度,保護貿易制度として体系的に総括される。これらの方法は,一部は,残虐きわまる暴力によって行なわれる。たとえば,植民制度がそうである。しかし,どの方法も,国家権力,すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して,封建的生産様式から資本主義的生産様式への転化過程を温室的に促進して過渡期を短縮しようとする。暴力は,古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜勢力なのである」(Marx,1990,pp. 915,916)。(同上,S. 799)
 
「それゆえ,最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は,それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく,むしろ原則なのである。それだから,この制度を最初に採用したオランダでは,偉大な愛国者デ・ウィットが彼の箴言のなかでこの制度を称賛して,賃金労働者を従順,倹約,勤勉にし...これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。しかし,ここでわれわれに関係があるのは,この制度が賃金労働者の状態に及ぼす破壊的な影響よりも,むしろ,この制度によって行なわれる農民や手工業者の,要するに小さな中産階級の,すべての構成部分の暴力的収奪である。この点については意見の相違は少しもない。それはブルジョア経済学者のあいだにさえもない。この制度の収奪的効果は,保護貿易制度によっていっそう強められるのであって,保護貿易制度はこの租税制度の不可欠な構成部分の一つなのである」(Marx,1990,p. 921)。(同上,S. 784)
 
「それには多くの暴力的な方法が含まれているのであって,われわれはそのうちのただ画期的なものだけを資本の本源的蓄積の方法として検討したのである」(Marx,1990,p. 928)(同上,S. 790)
 
「また,ロシアやインドの共産的共同体の土地があった。これらの共同体は,国家の容赦ない専制が  非常にしばしば責め苦によって  強要した租税のための貨幣を手に入れるために,自分の生産物の一部分を,しかもますます大きくなって行く一部分を,売らなければならなかった。これらの生産物は,生産費にはおかまいなしに売られ,商人がかってにつける価格で売られた。というのは,農民は支払期日のためにはどうしても貨幣を手に入れなければならなかったからである」(1991,p. 860)。(『資本論』第3部,S. 735)
 
「すでに前にも述べたように,重金主義は,世界市場のための生産,生産物の商品への転化,したがってまた貨幣への転化を,正当に,資本主義的生産の前提および条件として告げ知らせた...しかしまた,同時に,それは,当時の利害関係者である商人や製造業者を正しく特徴づけるものであり,また,彼らによって代表される資本主義的発展の時期にふさわしいものである。というのは,封建的農業社会から産業社会への転化にさいしては,また,それに対応して行なわれる世界市場での諸国民の産業戦では,いわゆる自然的な方法によっってではなく強制手段によって達成される資本の加速的な発展が寛容だという点でそうなのである。国民的資本がしだいに緩慢に産業資本に転化して行くか,それとも,保護関税を媒介としておもに土地所有者や中小の農民や手工業に課される租税によって,独立直接生産者の加速的収奪によって,資本の強行的に加速された蓄積と集積とによって,要するに資本主義的生産様式の諸条件の加速的形成によって,この転化が時間的に速められるかは,非常に大きな相違になる」(Marx,1991,p. 920)。(同上,S. 793)
 
「絶対君主制は,それ自身がすでに,ブルジョア的富が古い封建的諸関係とは相いれない段階にまで発展したことの産物なのであるが,絶対君主制は,辺境のあらゆる地点において [中央部と] 同一形態の一般的権力を行使することが出来なければならないことに対応して,こうした権力の物質的槓杆として一般的等価物を必要とした,つまり,いつでも即応できる形態にある富  こうした形態にある富は地域的,自然的,個人的な特殊的諸関連からはまったく独立している  を必要とした。絶対君主制は貨幣形態にある富を必要としたのである。賦役と物納の制度は,賦役や物納のもつ特殊的性格に応じて,それらの利用の仕方にも特殊化の性格を与える。どのような特殊的使用価値にも直接に転換可能なものは,貨幣だけである。だからこそ絶対君主制は,貨幣が一般的支払手段に転化するように作用するのである。こうした転化は,諸生産物をそれらの価値以下で流通させようにさせる,強制された流通によってのみ,なしとげられうる。だからあらゆる納税を金納税に転化することが,絶対君主制にとっては死活問題なのである」(Marx,1987 [1858],pp. 430,431)。(『マルクス資本論草稿集 3』,S. 19)
 
「プロイセンには強制通用力をもった紙幣が実存する。(還流は,租税のうちのある割当額が紙幣で支払われなければならない範囲で,この紙幣にとって保証されている)」(Marx,1973,p. 132)(『マルクス資本論草稿集 1』,S. 66)
 
「(あらゆる諸関係の貨幣諸関係への転化の影響を詳論すること,すなわち,現物貢租の貨幣貢租への転化,現物地代の貨幣地代への転化,義務兵役の傭兵隊への転化,一般にすべての人身的給付の貨幣給付への転化,家父長的,奴隷的,農奴的,ギルド的労働の純粋な賃労働への転化)」(Marx,1973,p. 146)。(同上,S. 81)
 
「すべての貢納の貨幣租税への転化をともなった絶対王制の台頭の時代には,貨幣はじっさいのところ現実の富がそのいけにえにされるモロク神として現われている」(Marx,1973,p. 199)。(同上,S. 128)
 
「地代の貨幣地代への転化。一般にいっさいの現物納付(租税や地代など)の貨幣納付への転化」(Marx,1971 [1863],p. 289)(『マルクスエンゲルス全集 26Ⅲ』,S. 284)
 
(注。参考文献の情報を整理しておく:
Marx, K. (1971 [1863]). Theories of surplus value (Part Ⅲ). Moscow: Progress Publishers.
Marx, K. (1973 [1857]). Grundrisse: Foundations of a critique of political economy. New York: Vintage.
Marx, K. (1987 [1858]). The original text of the second and the beginning of the third chapter of: A contribution to the critique of political economy (the Urtext). In: Marx & Engels, Collected Works, Karl Marx, 1857-1861 (Vol. 29). New York: International Publishers.
Marx, K. (1990 [1867]). Capital: A critical analysis of capitalist production (Vol. 1). Penguin Classics.
Marx, K. (1991 [1894]). Capital: A critical analysis of capitalist production (Vol. 3). In: F. Engels (Ed.). Penguin Classics.)

3 本源的蓄積:経済学≒原罪:神学

この記事の最後に,この記事の執筆者が趣味程度ではあるものの神学,特にプロテスタント神学を学んでいる影響もあって,マルクスが神学という言葉を用いて「本源的蓄積」について『資本論』で述べている文章を引用したいと思う。(経済学だけしか勉強していない,あるいは勉強していてもせいぜい哲学までである,という人には全く面白くない箇所かもしれないが,それはあまりに勿体無いというものである。)

「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は,原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがりんごをかじって,そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は,それが過去の物語として語られることによって,説明される。ずっと昔のあるときに,一方には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり,他方にはなまけもので,あらゆる持ち物を,またそれ以上に使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく,神学上の原罪の伝説は,われわれに,どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが,経済学上の原罪の物語は,どうして少しもそなことをする必要のない人々がいるのかを明かしてくれるのである。それはとにかくとして,前の話にもどれば,一方の人々は富を蓄積し,あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして,このような原罪が犯されてからは,どんなに労働しても相変わらず自分自身よりもほかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と,わずかばかりの人々の富とが始まったのであって,これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに,その富は引き続き増大してゆくのである。」(マルクス『資本論』第3部,S. 741-742)

原罪が神学で演ずる役割,についてはいろいろなことが言えそうなのであるが,ここではただ,カール・バルト(偶然にもカール・マルクスと同じ「カール」である!)という神学者の次の言葉を引用しておくことにしよう。

「人間から生じるものは,人間を救うことができない。そのようなものが「神の前に義なのではない」。」(『ローマ書講解(上)』平凡社ライブラリー,2001年,邦訳135ページ)

信仰がなければ,いや信仰があると本人が思っていたとしても悪から離れることのできない人間という生物は,そもそもが悪なのであるから,人間の行動から善を導き出せる可能性はゼロである(自然利子率はゼロである,のゼロの解釈と同じかそうでないかは,この記事の読み手に任せることとする)けれども,その可能性を追求しないこともまた悪である。進まざるも悪,進むも悪,という生物たる人間は,神なしに善をなすことはできないのである。この記事の執筆者には二人の「カール」(バルトとマルクスのことであり,滝沢克己という日本の哲学者及び神学者は『バルトとマルクス』(三一書房)という本を書いている。)はそういうことを言っているように聞こえるのである。「地上の批判 Kritik der Erde」を徹底することによってこそ見えてくる「天上の批判 Kritik des Himmels」というものがある。信仰の大切さを注意深く説いているカール・バルトと,信仰についてはなんというか距離をとっているように見える(少なくとも著作の上では)カール・マルクスとが,少なくともこの記事の執筆者にとっては(あるいは先に挙げた滝沢克己という人にとっては)繋がって見えるのである。

(そういえば,政治の要諦として「信なくば立たず」ということを述べる政治家がいますけれど,「信」の部分をあえて「シン」というふうに書いておくと,色々面白いことが言えそうな気がしますね。)



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