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死の家で記録された自由


【その19】


「空想にふけりがちだったことと、長いあいだ隔離されていたことがわざわいして、自由というものが監獄ではほんとうの自由よりも、つまり実際にある現実の自由よりも、何かもっともっと自由なもののように思われていた」



ドストエフスキー
『死の家の記録』
訳者 工藤精一郎 
新潮社 昭和48年 555頁





想像上の自由よりも素晴らしい自由が現実には存在しないんじゃないかと感じるのは、あまりに悲観的だろうか。


人間というのは見えない部分をより良く想像する生き物らしいので、この「自由」に関してもまた、ちっぽけな生き物に与えられた想像力という厄介な機能によって、実際の自由よりもずっと魅力的なものに仕立て上げられているんじゃないだろうか。

それは馬の目前にぶら下げられた、ゆらゆらとゆれてありつけそうでありつけない人参のようにも感じられる。


しかしどうやら、絶対に手に入るものだと強く信じて食らいつこうと挑むか、絶対に手に入らないと腹を決めてこの一生と対峙するか、それを選ぶ自由はあるらしい。

頭の中で何を考えるかは、囚人だろうが聖人だろうが、いつだって自由だ。





私は自分の本棚を、その背表紙たちを眺めるのが好きだ。
自分の中にある自由の領域が、そこに並んでいる。





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