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目的がズレてしまう努力

先日出張に出た際に大阪のとある駅前で
大きな声が耳に入ってきた。

一体何事かと思い見てみると
大学生と思しき学生の方々が10人ほど並び
募金の呼びかけをしていた。

私はあまり通りがからない場所なので
珍しいと感じたのだが、
同行していた大阪出身の人曰く、
この場所は募金活動がよく行われているという。

電車の乗り換えまで時間がなかったので
彼らが一体何の募金に対して声を出していたのかは
はっきりとわからないまま通過してしまったが、
仮に時間があったとしてもあの場所で
募金をするには心理的なハードルがあると感じた。

なぜなら、募金をする人が現れると
「ご協力、ありがとうございます」と
大きな声でその人たちから言われるからである。

私自身募金はこまめにするようにしている。

以前にSNSで知りあった方の娘さんが
小児がんを患われたことを知ってから
小児がんの子供をサポートする団体に
定期的に募金しているし、
それ以外にも災害復興募金には
手持ちの小銭を入れるようにしている。

別にこれは人に感謝されたいからはなく
自分がただしたいからしているだけである。

だが、今回遭遇した募金のように
募金している人に大きな声で感謝を述べられると
何だかそれが目的の様にすり替わってしまうのが
嫌なのだ。

募金の主旨を自らの声で通りがかる人に説明し、
その理解を得ながら募金してもらうことは
確かに効果はあるだろう。

また、僧侶がする托鉢のように
寄付をする機会を世の中の人に与えているという
側面もあることは理解できる。

だが、果たして今の時代
その形がベストなのか?とも思う。

クラウドファンディングという手もあれば
SNSなどで発信するという方法もある。

むしろSNSなどの拡散力をうまく活用できれば
通りがかりの人に声を出すよりも
確実に募金の主旨を理解してくれる人に
アプローチできる確率が上がるであろう。

実際、駅前で10人ほどの若者があのように
声を出してどの程度の募金額が
集まるのかはわからない。

募金額を本当に求めるのであれば
あのような募金のスタイルではなく
その時間を使って働き、
その収入の一部を募金に回す方が
確実に募金額は高くなるであろう。

チャリティ活動に効率を求めるのは
野暮だというご指摘はよくわかるし、
私は決して募金をしていた彼らを
批判したいのではない。

しかし、志をもってその活動をするならば
最も成果の出る形を求めても
良いのではないかと思うのだ。

成果はイマイチだけど、
街頭に立って大きな声を出すことで
彼らが満足感を得てしまうのは
せっかく彼らが持った素晴らしい志を
違う方向に活用してしまっていると
私は思う。

私達には成果にならずとも努力をする姿に
心を打たれるという習性がある。

試合には勝てなくても部活で練習を沢山してきたことを
ほこりに思う学生は世の中に
山ほどいるだろう。

だが、彼らも本当は勝つことで
ほこりに思いたかったはずなのだ。

私も30代半ばぐらいから
このような考え方をするようになったが、
今の考え方を持ったうえで
学生時代の部活に向き合えたならば
きっと色々練習の仕方を工夫できて
楽しさは学生時代のものとは全く異なるであろう。

駅前で大きな声を張り上げる若者の方々が
自分の努力ではなく、成果を得ることに
楽しさを感じられるような
環境を作ってやるのも私達世代の
大事な役割なのかもしれない。

そんなことを思う移動中の出来事であった。

ちなみにこんな記事を書くと
効率ばかりを重視する人なのかと
思われてしまうかもしれないが、
私の趣味は昆虫飼育と読書であり
効率とは程遠いものである。

娯楽やエンタメというものは
非効率の中にしか生まれないとすら
思っている。

今日は日曜日。
非効率な娯楽を楽しんでいこうと思う。

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