読書とハグと許容感と見世物の世界。
さくじつのブログでは、本を読むことについて、
読書によってぼくは心が救われた、
って感じられる場面もあって、
とのように記していたですが。
とは言ってみても、この
心が救われた、つまり、じぶん自身が
精神的に救われた、ということだと思うけれども、
それが、具体的にはどういうことなのか?
ってえのはうまく説明できないな。
心が救われる、とは、
どのような状態なんだろう。
なおかつ、たとえば、読書では
目の前に他人がいるわけでもないんだから、
ぼく自身を、直接
救おうとしてくれているのではないからこそ、
読書によって救われる、というのが、
実質的にはどういうふうなのかうまく言えない。
今、このうえのところで
「目の前に他人がいるわけでもないんだから」
って記しながら思いついたのは、
目の前に他人がいて救われるというのは、
ハグしてくれたとき、みたいなことだと思うけど。
そう考えるとすれば、読書とは、
じぶん自身の身体を、直接的にではなくて
間接的にハグしてくれた、というふうに思うのですが、
そういうことって現実的にありうるの?!
さくじつのブログでも申しあげましたが、
「本を読んでも本当に大事なことは学べない」
という言説があるとして、それはそれで
真理である、とも、ぼくも思ったりもするけれど。
ならば、人と会い、そして、対話をして、
大事なことを学ぶ、というときには、つまり、
目の前には人がいる。
この目の前の人から、いろいろ
教えていただくような場面では、
目の前の人が怒ったりするときもあるやもしらない。
でも、読書においては、基本的には
本は怒らないから。
つまりはさ、読書の中である文章を読んだとき、
(これってどういうことなんだろう???)
って、長い時間考えてみたり、はたまた、
ある文章を読みながら、その文章の内容とはちがう
別のなにかのことを思い出してしまって、
ふと、物思いに耽ってしまったり。
そういうのも、読書では許される。
じぶんなりのペース及びじぶんなりの方法で
じぶんなりに行うことができる、というのが
読書の特徴なのだと考えられる。
ましてや、小学校の夏休みの宿題のごとく
「読書感想文」を求められるわけでもないので、
好きに読みながら、そして、
感想が無ければ無いでも良いし、
感想がうまく言えなければそれでも良いし、
なにかを考えられそうなんだけれども
うまく言えなくって、そのまま
そのことを何年も考えつづける、
というのでも良いのだし。
読書とは、そういうことさえも
許容される感じがあって、
だからこそ、そんなような、じぶん自身への
ある種の許容感によって、心が救われる、
というふうにも言えるのかなあ?
いや、ほんとうのところはわからないけれども。
それは、でも、逆に、
本からしか学べない、他人からは学べない、
というのはまったく思っていない。
けれども、いわゆる
「本を読んでも本当に大事なことは学べない」
というのはそうなのかどうかぼくにはわからない。
どちらかと言えば、
他人からも学べるし、かつ、
本からも学べるし、のほうが
学びとして最強なんだとも思うの。
ぼくは、村上春樹さんの
小説作品が大好きなのですが、
とくにはさ、今、ぱっと挙げるとすれば
村上さんの長編作品『1Q84』のはじまりにおける、、、
‥‥という、
Billy Rose, E.Y.Harburg & Harold Arlenによる
『It's Only a Paper Moon』という歌の
歌詞の引用のことばが、好きなんだなあ。
ここから、いよいよ
『1Q84』の世界がはじまってゆく感!
見かけにだまされないように。。。
令和6年4月1日