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メタファーとして出合うことができる。

読書について話そうとするときにね、
本なんて読んでも意味がない、実際に
人と会って話さなければ何も学べない、
とのように言われたこともあったりして、
そう言われると、本が好きなじぶんとしては
ちょっとつらくなるんだなあ。

そもそも、ぼくとしては、本を読むことは
何かを学ぼうとするがために、つまり、
意識を高く持ちたくて行っているわけじゃあない。

おもしろいから、読んでいる。

とは言ってみても、ぼくは
20代半ばごろから本を読むようになったので、
本を読んでいなかったコンプレックスみたいなのも
無いわけでも無いのですが。でも、いわば、
本を読むことって、たとえば、
音楽を聴くことよりも、
映画を観ることよりも、
ゲームをすることよりも、
それらのほかのどの鑑賞よりも、
いちばんおもしろいんじゃあないか? 
とも思っているんだけどね。
いや、知らないけれど。。。

でも、そのように
「本なんて読んでも意味がない。」というような、
つまり、たとえて言えば、この世界において
すべての本が消え去れば良い、のごとく、
本に対して、ありったけの
憎しみを込められるように言われると、
けっこう苦しくなっちゃうのよね。

本は読まずに、実際に
人と会って話さないと学べない、というのも、
人と会うことは、とってもとっても
大事なことだと思うけれども、
でも、状況によっては
人と会えないこともあるから。
たとえば、その人が
遠くに住んでいる、とか、
有名人・著名人である、とか、
もうすでに亡くなっている、とか、
そうなれば、なかなか、
会うことも困難だったり、もしくは、
会うことが不可能な場合もあるだろう。

昨日のブログの中で申しあげました、
孫泰藏さんの著書『冒険の書 AI時代のアンラーニング』は、
主人公の「僕」が、あらゆる時代の
書籍(冒険の書)をひもときながら、
今、この世界における
「これから必要な勉強ってなんだ?」について、
考えてゆくストーリーなのですが。
「僕」が書籍を開いて読もうとすると、毎回、
まばゆい光に包まれて目の前が真っ白になり、そして、
その本を記した偉人が目の前に現れる。

この感じって、フィクションではあるとしても、
でも、ぼくの感覚としては、なんだか、
けっこうリアルだとも考えていて。

本を読むこととは、たとえば、
その本を読みながら、著者や登場人物たちの
「声」が聴こえてくるような感覚がある、というか、
もっと言えば、著書の方と
「対話」をしているかのような、というか、
さらに言えば、著者の方に
手を引っ張られてどこかの場所へと歩いてゆく、
みたいな感覚を思ったりもするのですが。
つまり、孫泰藏さんの著書
『冒険の書』のように申すとすれば、
著者の人が目の前に登場する、的な?!
それはさ、でも、
実際的には会っていないにしても、
メタファーとして会っている、と思うの。

そしてまた、本ならば、
遠くに住んでいたり、著名人だったり、
もうすでに亡くなられていたり、というような
実際に会うことがむつかしい方々とも、
メタファーとして、つまり、比喩的に
目の前で出合うことができる。

本なんて読んでも意味がない、実際に
人と会って話さなければ何も学べない、
ということもね、それはそれである意味では
真実なのやもしれないけれども、
でも、たとえば、
人からも学べるし、なおかつ、
本からも学べる、ってゆうになったら
最強じゃん! そして、そのどちらともが
おもしろい、且つ、たのしい、
というふうになれば、
なおのこと、よい、とも思う。

だからさ、ぼくとしてはさ、
本には価値があるかどうかはしらないけれども、
本というものも、この世界に
あっても良いじゃないか!
って思うのよね〜。

令和5年7月18日