見出し画像

平成18年のぼくにはよくわからなかった!

昨日のブログでは、岡本太郎さんの壁画作品
『明日の神話』について、今、あらためて想いながら、
平成18年(2006年)の夏、東京・汐留にて
作品が初公開されたときに掲げられておりました
【Be TARO!】のことばをね、今、また、
胸に秘めたい! みたいなことを申しあげました。
でも、そう言えば、この
【Be TARO!】ということばって、
ぼくは当時、わかるようで
あんまりよくわからなったような気がするなあ。

【Be TARO!】のことばについて、
平成18年の作品公開時の冊子では、
コピーライター・糸井重里さんの寄せられたコメントとして
【岡本太郎のことを強くて端的に表す言葉って
 何かないかな、と思って。例えば“Be TARO!”とか。
 お前がTAROになれ! っていうメッセージが
 岡本太郎から発せられているんじゃないか】
とおっしゃっていて、また、かたや、
アーティスト・村上隆さんは
【岡本太郎みたいになりたいと思った瞬間に
 岡本太郎から離れていく。僕は前例のない、
 岡本太郎ではない何かにならなきゃいけない】
とおっしゃっている。

この当時のね、
糸井さんのことば、及び、村上さんのことばとは、
正反対のようでもあるけれども、でも、
同じことを言われているやもしらない、
とも思われる。

つまりはさ、この
【Be TARO!】とは、いわば
「TAROになれ!」であって、決して
「岡本太郎になれ!」ではない。
「岡本太郎」に成ろうとしても
成れるものでもないし、ましてや、
村上さんのおっしゃっているような
「岡本太郎みたいになりたい」と思った瞬間、
岡本太郎から離れていく、というのも
わかるような気もする。だからこそ、
【Be TARO!】とは、いわゆる
「TARO」という概念があり、
その地点へと目指してゆくかのごとく?!!

そして、ならば、
「TARO」という概念とは何か?
ってゆうのもね、でも、やっぱり
わからないと言えばよくわからないけれども。
平成18年のぼくには、さらに
もっとわからなかったとしても、
令和6年のぼくには、
彼がいるのだから。彼とはつまり、
そう、芸術の巨人・タローマンである。

ぼくは今でもなお、ふとしたときに
「タローマン」の主題歌である
『爆発だッ!タローマン』を口ずさんしまうですが。
この歌の中に、いわゆる
【Be TARO!】のヒントがあるのではないか?!

爆発だ! 爆発だ! 爆発だ! 芸術だ!
べらぼうな夢はあるか? でたらめをやってごらん
自分の中に毒を持て 自分の運命さだめに楯を突け
うまくあるな きれいであるな ここちよくあるな
マイナスにとび込め! タローマン

爆発だッ!タローマン

この歌詞の中でぼくがとくに好きなのはね、
【べらぼう】ということばであったり
【でたらめ】ということばであったり、そしてまた
【うまくあるな きれいであるな ここちよくあるな】
という箇所を歌うことなんだけれども。
ぼくには、なかなか
それらはできなかったとしても、
この歌を歌いながら、思い出しながら
そうあれるようでありたい。つまり、
【Be TARO!】であれたら。

たとえば、もしかしたら
大変な何かを成す際には、この
【べらぼう】や【でたらめ】及び
【うまくあるな きれいであるな ここちよくあるな】
であるべきなのやもしらないな。

今思えば『タローマン』のテレビ番組もまた、
壁画作品『明日の神話』と同様、
現代になって復活を果たした、
って考えれば、感慨ぶかい。。。

先日、『明日の神話』修復プロジェクトの
クラウドファンディングのリターンで届きました
書籍『明日の神話1967-2023』の中では、
昭和44年(1969年)12月『芸術新潮』にて掲載された文書より、
太郎さんがメキシコで壁画を描いていたころ
現地のメキシコ人たちからは、
「あなたはメキシコ人の中のメキシコ人だ。」
と言われていた、とのことでして。

私の言動のベラボーさに、彼らはびっくりし、それからひどく嬉しくなってくるらしい。「あなたはメキシコ人の中のメキシコ人だ、メキシコのサムライ。チャロだ」と言われる。

『明日の神話 1967-2023 —岡本太郎はなにをのこしたのか』5頁より。

この文書の中では、太郎さんが
「ベラボー」ということばを記されていたのが、
なんだか、うれしかったです。

令和6年の今、あらためて
「Be TARO! Again」、もしくは、
「Be TARO! Forever」でやってゆけたい!

うまくあるな〜 きれいであるな〜 ここちよくあるな〜♪

令和6年1月4日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?