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謎とあまりにも長い年月と神隠し。

このごろの何度かのブログでは、
宮﨑駿さん監督映画作品集より今回はあらためて
『千と千尋の神隠し』を観て考えたことを申しましたが。
そのブログの文章をね、だれかに
読まれるか読まれないかはこの際置いておくとして、
ぼく自身としては、このことを書く、というのは
大切なことなのかもしれないとも存じました。
つまり、書けば書くほど考えられるし、
考えたことや思ったことを整理できる。
たとえば、昨日のブログでは『千と千尋の神隠し』とは
「ほんとうの姿を見る」というのが
大切な要素だと思える、としるしたですが、
それは、つまり、映画のラストシーンにおいて
豚になってしまった千尋の両親の姿を
千尋は見破ることができた、だけでなくって、
龍の姿になったハクを、千は
感覚的に見抜いた、のことだけでもなくって、
湯婆婆の息子・坊が、湯婆婆の双子の姉・銭婆の魔法によって
ネズミの姿になってしまって、その坊を
湯婆婆自身は見抜くことができなかった、
というこの対比が重要だった、的な
それらの場面より鑑みてそう思えたんだけれども。
これらのことをね、ぼくとしては
ブログで書かなければきちんと考えられなかった気もする。

そしてまた、その感想のブログを書くためには
インターネットでいろいろ調べたりもしたですが、
そのなかでは、ぼくが映画を観ただけでは
気づかなかった場面もいろいろございまして。
たとえば、千尋が油屋で働くために
湯婆婆より渡された契約書へ名前を記すとき、
そこに記された「荻野千尋」という文字は、じつはこの
「荻」の中の「火」の字が「犬」になっていて、
つまり、千尋はじぶん自身の名前を間違えて
契約書にサインしていた。
湯婆婆はその文字を魔法で剥ぎ取り奪ったけれど、
このとき、千尋が文字を間違えて書いたからこそ
湯婆婆の魔法による支配がうまく作用しなかった、
という解釈もあるらしくて、なるほど、と思いました。

はたまた、映画のいちばんのラストシーンでは
千尋たちが迷い込んだ不思議な世界から、
元の世界へと戻って来ることができたけれど、
このとき、そこまで乗ってきた車には
木の枝とかが散乱していて、あきらかに
いくらかの時間が経っていた、というのは把握できるけれども。
物語の冒頭にて、千尋たちが
不思議な世界に通じる建物の中へ踏み入れる前の建築と、
戻って来た後のその建築とでは、
建物の作りが変化している、というのは
ぼくはあんまり気づかなかったんだった。
なんとなく、ちがう、とは思いながらも、
入るときには朱色で、かつ、父親の言うにはモルタル製、
そして、帰ってきたときにはレンガ造り、
という、そのことがなにを表しているか? ってえのは、
ぼくにはよくわからないけれども、
考えてみると、とってもこわい。。。

そんなような、つまりはさ、
『千と千尋の神隠し』には、あらゆるシーンで
謎の要素がたくさん込められているのでしょう。

千尋たちは、八百万の神様たちの集う
不思議な世界へと迷い込みながら、
そこから、元の世界へ帰ってきたときには
どれだけの時間が経っていたんだろう?
映画では、元の世界へ戻り、車に乗り込み
森から出ようとするまでが描かれているけれど、
千尋たちが森から出たとき、そこには
どんな光景が広がっているのか?!
というのを考えると、やっぱり、こわいんだなあ。
「浦島太郎」のごとく、あまりにも
長い年月が経過しているやもしらない。
(千尋たちが乗るアウディは、どんな年月が経っても
 魔法によって動くことができる。)
浦島太郎の物語も、そして、千尋たちも
神様の世界へと入り込んでしまった、という
「神隠し」に合った、と思われる。

令和6年8月24日


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